|
「未来……!」 「あ、何?」 お母さんに呼びかけられて、あたしは顔をあげた。 食卓の子豚の丸焼きの向こうから、お父さんとお母さんが、心配そうな顔であたしを見ていた。 「どうしたの? 食が進んでないようだけど」 「え? そうかな?」 あたしは頭を掻いて言った。目の前の取り皿の上には、最初にとりわけてもらった豚が、ほとんど手つかずのまま残っていた。 「……おまえ、また、恋煩いか?」 人の顔色を窺うように、お父さんは言った。 「そんなことないわよ!」 あたしは、持っていたフォークを置いて、右手を振って否定する。けれど、二人は互いに顔を見合わせ溜め息をついた。 「未来が食欲をなくす時って、一目惚れしたその日くらいだものね。高見沢君に振られたって、言ってたのは、一昨日じゃない? この惚れっぽさは、一体誰に似たのかしら」 「俺じゃないぞ。俺は、母さん一筋なんだからな」 お父さんはお母さんに、にっこり笑いかけたけど、それを無視して、お母さんはつぶやいた。 「じゃあ、やっぱりあたしに似たのね。お母さん、恋い多き乙女だったから……」 慌てたのは、お父さんだ。 「おい、なんだそれは。俺は聞いていないぞ!」 「まあ、一々言う必要もないでしょう?」 あらら? 話が変な方に向いちゃった。 「あのね、お父さん、お母さん」 あたしは、二人の間に割って入った。 御飯時に夫婦喧嘩をされると、たまらないのよね。ダイニングは戦場より、ヒサンになるんだもの。 「今度の人はね、『マッスル・ガールだなんてひどい』って言ってくれたのよ。『こんな可愛い子に、ひどい仇名だ』って」 「ほら、お母さんの言った通りでしょう? そんなふうに、人の噂なんか、気にしない人があらわれるのよ」 お母さんが、にっこりと笑う。 「おい、さっきの話が終わってないぞ!」 「どんな人なの?」 お父さんを無視して、お母さんが言う。 「背が高くて、ちょっとスリムで、切れ長の目の、りりしい美男子。うん。あれは美少年とか、ハンサムとか言うより、美男子と言うべきよね」 「そんな男のことより、さっきの話は……」 「で、名前は?」 ほんとにきれいさっぱりお父さんを無視して、お母さんは言った。いつもこうして無視されてる間に、お父さんは気が抜けてしまうのだけど…… 「名前はねえ……」 あたしは、家庭の平和を守るため、会話を続けようと口を開いて……硬直した。 「どうしたの、未来?」 お母さんが、怪訝そうな顔をした。 お父さんも、あたしの顔を覗き込んだ。 「名前……聞いてない」 そうよ、あたし、あの人の名前を知らない。 なんてトジ! なんて大ボケ! 「でも、名前なんて、調べればすぐわかるし……」 お母さんが言うのを耳にしながら、あたしはフォークに手を伸ばした。 「フォローなんてしないで。あたし、自分の阿呆さ加減に頭にきてるんだから」 グサッ。 豚にフォークを突き立てる。 自己嫌悪に陥ったあたしは、ヤケ喰いで憂さばらしをするのが常で…… ええい、喰ってやる! 恋煩い、何処吹く風。 にわかに食欲を増したあたしを見て、お父さんがつぶやいた。 「健康は食から。まあ、食欲があるのに越したことはないからな」 翌朝のことだった。 我が家の朝は早い。 五時半には、家族全員(と言っても、三人だけだけど)が起き出している。 身支度を済ませて、あたしとお父さんは、朝のトレーニングをする。軽く柔軟体操をしてから、トレーニングルームでウエイ卜トレーニング中心のメニューをこなしてゆく。 毎日、これをしないと目が覚めないの。 体を動かしているうちに、全身が火照ってくる。ダンベルを持ち上げるリズムに、呼吸のリズムが合う。額を伝う汗さえ心地よい。 トレーニングを終えて冷たいシャワーを浴びると、すっきりして、『今日も一日、がんばるぞ』なんて、何をがんばるのかわからないけど、そんなことを思ったりする。 その間に、お母さんは朝食を用意して、八時に食事、八時半には、あたしは学校に行くのだ。 けれど、今日は少し違っていた。 朝食を食べ終わって、歯を磨いている時だった。 ピンポーン。 玄関のチャイムの音。こんなに朝早く、誰かしら? そんなことを考えながら、口をすすいでいると、バタバタと足音が聞こえてきた。 洗面所に顔を出したのは、お母さんだった。 「ちょっと、未来。男の子が迎えに来たわよ! 早く支度しなさい!」 「へ?」 男の子? 迎え? 「あれが例の彼なの? もう、お母さんびっくりしちゃって……」 お母さんは、ほとんどパニックを起こしていた。 でも、彼が迎えに来るわけないのよ。 「しかも、外には運転手つきのロールスロイスが待ってるじゃない! 彼、お金持ちなのね」 「ちょっと待って! ロールスロイスですって?」 そんなことしそうな奴、一人しか知らないわよ。 「名前、聞いたの?」 答えは分かってるんたけど、一応聞いてみる。 「市川時夫って、言ってたわよ」 やっぱり。 頭が痛くなってきたわよ。 「い−い? あたしがこの車に乗ったのは、他人の迷惑を考えたからなのよ!」 あたしは、隣に座った時夫に言った。 だってねえ、『学校まで送る』って言うのを断わって歩き出したら、この大きなロールスロイスで、のろのろ運転でついて来るのよ。この住宅街の狭い道路で、この馬鹿でかい車が、あたしの歩く早さにあわせてのろのろやってるのよ! 後ろの車は道幅が無いから追い越せなくて、クラクションをガンガン鳴らすし、それを聞いて、近所の人は出てくるし。仕方ないから、あたしは時夫の言うままにこの車に乗り込んだのよ。 「はいはい。わかってるよ」 時夫は、あいもかわらぬにやにや笑いを浮かべて言った。この笑いが、かんにさわるのよね。 「少し遠出をしよう。鈴木、海の方にやってくれ」 時夫の言葉に、運転手さんが『はい』と答える。 「ちょっと、学校はどうするのよ!」 「大丈夫。今日は、学校へ行かなくても、出席扱いになるように、手配したから」 はん。多額の寄付金のなせるわざね。 「じゃあ、あたしがこの車に乗っている必要もないわけね。降ろしてくれる?」 「いやだね」 時夫は、真面目な顔をして言った。 「それって、誘拐よ」 「だって、こうでもしないと、まともに話もさせてくれないじゃないか」 聞きたくもないことを言う、あんたの方が悪いんでしょう! 「俺、運がいいんだ」 ふくれているあたしを、お母さん並みにきれいに無視して、時夫は言った。 「とにかく、やたら運がよくてさ。毎年、おとし玉付き年賀葉書の一等から始まって、年末ジャンボ宝くじまで、くじとか抽選とか、はずれたことがないんだ。くじ運だけじゃない。物心ついてから、俺、障害らしい障害に出会ったことがないんだ」 言い切ったわね。御大層な自信だこと。 そんなことを考えていたら、突然、時夫があたしの方に振り向いた。 「……このままじゃ、いけないんだよ」 「なんで?」 だって、運がよくて困るなんて、聞いたことがない。 「俺、調子に乗りやすいタイプだから。こんなふうに運がいいと、絶対に調子に乗ってて、増長しちまうんだ」 「そのままでも、十分増長してると思うわよ」 あたしはつぶやいた。 「そういうことを言ってくれるのは、未来ちゃんだけなんだ」 時夫は苦笑した。 「いろんな女の子を知ってるけど、百万の小切手を破ったのは、そのうえ俺を殴った女の子は、未来ちゃんだけなんだ」 時夫は、じっと、あたしの目を見つめた。 「俺、本気で、未来ちやんが好きだよ」 「え……?」 突然の告白にどぎまぎしていたら、時夫は眉を寄せた。 「信じてくれない?」 「……うん」 とりあえず、うなずいてみる。 「そうか……」 そうつぶやいて、時夫は顔を伏せた。 あ、傷ついたかな? そりや、真面目に話していて、信じてもらえないって悲しいもんね。 どうしよう…… 「鈴木」 うつ向いたまま、時夫は運転手さんに声をかけた。 「一番近いラブホテルにつけてくれ」 「な……?」 ちょ、ちょっと、それ……! 「未来ちゃん」 時夫が、がばっと顔を上げた。 「君が俺の愛を信じてくれないのなら、俺は、全身でその愛を証明するよ!」 え? だって、そんな! やだっ! 思わず顔が引きつる。 と、突然、時夫の顔に、あのにやにや笑いが復活した。 「本気にしたの?」 「へ?」 「まさか……ね。だって、未来ちゃんの同意無しに、どうこうできるわけないだろう? 押し倒す前に半殺し……」 時夫が全部言い終わる前に、あたしの掌底が、時夫の顔にめり込んでいた。 何だかんだと言いつつ、ともかく時夫は、始業時間に間に合うように学校に送ってくれた。 「まったく、何考えてるんだろ、あの男!」 あたしは、昨日と今朝の経緯を聖子に話して、そうわめいた。 「でもさ、あんたか硬派組の面々をのした『マッスル・ガール』って知っていて、まともに話してくれる男って、あいつだけじゃない?」 聖子は、頬杖をついて上目使いにあたしを見上げた。 「あんまり邪険に扱っちゃ、可愛そうってもんよ」 「あいつだけじゃないもの」 あたしは、聖子に言った。 「『マッスル・ガールだなんて、かわいそうだ』って言ってくれた人、いるもの」 「そんなの、社交辞令よ」 「ちがうわよ!」 聖子は、あんまりあたしがむきになって言うのに、驚いたようだった。頬杖をやめて、あたしの顔を覗き込んだ。 「ねえ、その人って、誰?」 「意地悪したから、教えてあげない」 あたしは、そっぽを向いた。 「ねえ、教えてよ。一体誰なの?」 聖子が、好奇心を表に出した顔で言う。 けれど、教えられるわけ、ないのよね。 なんたって、あたしでさえ、どこの誰なのかわからないんだもの。 ふう。 あたしは、溜め息をついた。 あの人、名前、なんていうんだろう? 二年生だってことは確かなのよね。 一般生徒かな? それともどこかの組の……ううん。そんな感じじゃなかった。ナンパ組員に独特の雰囲気もなかったし、硬派組には入れそうにもないし、走り屋組員って感じでもない。極悪組なんて、想像もつかない。 きっと、ちょっと成績が良くて、苦手教科が一つや二つあって、体育は割と得意な明朗快活スポーツマンなんだ。 うん。間違いない。 「ちょっと、未来。何、にやにやしてんのよ。不気味──!」 聖子の言うのも気にならなかった。 今日一日、この調子でにへにへ笑い続けたあたしは、放課後まで、授業中五回も注意を受けた。 昼休みになると、また、時夫がやって来た。 「ぶっ……!」 時夫の顔を見るなり、聖子は吹き出した。それから、お腹を抱えて笑いだす。 「あんたも、懲りないわね」 予測はしていたけど、さすかに呆れながらあたしは言った。 「俺、未来ちゃんの愛を手に入れるためなら、何でもするんだ」 時夫は、例のにやにや笑いを浮かべていた。 「そのアザ、未来にやられたの?」 お腹を押えて、目尻の涙を拭いながら、やっとの思いでといった感じで聖子が言った。 「目立つかな……?」 時夫は、右目のまわりにまるくついたアザをさすった。 「目立つ。ものすごく」 聖子は、喉を鳴らして笑っている。 「殴られるようなことを、言うほうが悪いのよ」 「未来ちやんのリアクションが面白いから、つい、からかっちゃうんだよな」 次の瞬間、あたしは時夫のボディーに左フックを叩き込んでいた。 「食事時なんだから、吐くんじゃないわよ」 みぞおちを押えて、青い顔をしている時夫の耳元に、あたしはささやいた。人の迷惑を考えて、わさわざ手加減したんだからね。 「あたしがあんたを嫌う一番の理由はね、あたしが一番気にしていることを平気で言うからよ。しかも、本人は悪いと思っていないから、余計に腹が立つのよ」 咳こむ時夫にそう言って、あたしは教室を出ようとした。 ガラリとドアを間けると、目の前に学生服の背中が迫っていた。 「きや!」 「わっ!」 ぶつかりそうになって思わず悲鳴を上げると、相手もびっくりしたらしく、声を上げて振り向いた。 「あ……」 振り向いた人は、昨日の二年生だった。 「昨日は、どうも……」 あたしは、彼に頭を下げた。 「あ、いいえ、どういたしまして」 彼も、あたしに頭を下げた。 けど、どうしてこの人がここに居るんだろう。このクラスの誰かに用事でもあるのかな。 「あの、誰かに用ですか?」 「いや、そういうわけじゃないんだけど・……やっぱり、そういうことかな」 あたしの言葉に、彼は少し照れたように頭を掻いた。 「よければ呼びますけど……」 「いいんだ、目の前にいるから」 え……? 「あの……放課後、正門のところで待ってる。迷惑でなかったら、一緒に帰らないか?」 少し顔を赤くして、小声で彼は言った。 「でも、名前も知らないのに……」 やだ、何言ってるんだろう? 彼は目を見開いて、それから困ったように笑った。 「初めまして。東山志郎です」 右手を差し出しながら、彼は言った。 「佐伯未来です」 あたしは彼の手を握った。 「ちょっと、時夫君」 聖子の声が聞こえてきた。 「強敵出現ね」 「悪いことをしたかな」 彼、東山さんは言った。 大通りから、二つ通けを隔てた住宅街を、あたし達は歩いていた。この辺りは静かで、人と話しながらのろのろ歩くには丁度よい。 「なんのことです?」 「いや。他に、一緒に帰る相手がいるんじゃないかと思って……」 「そんな……」 「特定の、彼はいないの? こんなに可愛いのに?」 面と向かって言われると、何も言えなくなる。あたしはうつ向いた。 「だとしたら……ラッキーだな」 どういう意味? やっぱり、そういうことかな? ふと、東山さんの足が止まる。 何だろう? あたしも立ち止まり、東山さんを見上げた。 東山さんは、硬い表情で前を見ていた。彼の視線を追ってみると、そこには極悪組の奴等がいた。 「へっ。怪力娘も、一人前に男がいるのかよ」 この間、腹いせにのした奴等が、仲間を引き連れて報復ってわけね。 けど、タイミング悪いわよ! せっかく良い感じになってきたのに! 奴等は全部で七人。 あーあ、こいつ等をやっつけたら、東山さんもあたしを、化け物でも見るような目で見るんだろうな。 「この間の礼に来たぜ。覚悟してもらおうか」 ぐるりとあたし達を取り囲みながら、一人が言った。 「御礼なんてされるほどのことは、してないわよ」 あたしは、身構えようとした……けれど。 「これ、持ってて」 胸元に、学生鞄を押しつけられる。東山さんは、青ざめた顔で詰め襟を外した。 「え……? でも……!」 だって、どう見たってスリムな東山さんが、こいつ等にかなうわけない。 「たとえ佐伯君がどんなに強くたって、こういう時は男が前に出てかなきゃ、いけないんだよ」 そう言って、東山さんは笑った。 緊張に青ざめた顔。なのに、この人は笑ってくれる。 「優男が、お相手してくれるのか? 怪我してからじゃ、遅いんだぜ」 そう言って、一人が拳を振り上げた。 やだ。見てられない! あたしは、ぐっと目をつぶった。 「ぐうっ」 低いうめき。 「東山さん!」 思わず、あたしは目を開け叫んだ。 しかし、目の前でみぞおちを押えてうずくまっていたのは、極悪組の一人だった。 「てめえ、覚えてやがれ!」 使い古された捨てぜりふを残し、極悪組の奴等が逃げて行く。 あたしは、荒い息をつく東山さんの背中を見つめた。 これは、夢じゃないかしら? あたしは、呆然と見ていただけ。東山さんは、一人で極悪組の奴等をやっつけてしまった。 「佐伯君、怪我は?」 振り向きながらそう言った東山さんの目元には、血がにじんでいた。 「東山さん、血が……!」 あたしはポケットから、ハンカチを引っぱり出した。 「ああ、大したことないよ」 東山さんは、あたしの差し出すハンカチを押し返して、手の甲でそれを拭った。そして、あたしに向かって笑った。 「やられるかなって思ったけど、君に助けられるなんてみっともないから、かんばっちゃったよ」 東山さんの顔には、少しアザが浮いていた。明日になれば、腫れてしまうだろう。 「逃げちゃえば、よかったのに……あれくらいの人数なら、あたし、平気なのに」 あたしが言うと東山さんは、ムッとしたように言った。 「好きになった娘を守れなくて、何が男だよ!」 そう言ってから東山さんは、自分の言葉に照れたのか、口をとがらせて頭を掻いた。 東山さんの顔には、アザか浮いて髪も乱れていたけど、こんなにかっこよくて素敵な人、見たことがなかった。 |