筋肉娘の憂鬱

橋宗 優里

(4)

「未来……!」
「あ、何?」
 お母さんに呼びかけられて、あたしは顔をあげた。
 食卓の子豚の丸焼きの向こうから、お父さんとお母さんが、心配そうな顔であたしを見ていた。
「どうしたの? 食が進んでないようだけど」
「え? そうかな?」
 あたしは頭を掻いて言った。目の前の取り皿の上には、最初にとりわけてもらった豚が、ほとんど手つかずのまま残っていた。
「……おまえ、また、恋煩いか?」
 人の顔色を窺うように、お父さんは言った。
「そんなことないわよ!」
 あたしは、持っていたフォークを置いて、右手を振って否定する。けれど、二人は互いに顔を見合わせ溜め息をついた。
「未来が食欲をなくす時って、一目惚れしたその日くらいだものね。高見沢君に振られたって、言ってたのは、一昨日じゃない? この惚れっぽさは、一体誰に似たのかしら」
「俺じゃないぞ。俺は、母さん一筋なんだからな」
 お父さんはお母さんに、にっこり笑いかけたけど、それを無視して、お母さんはつぶやいた。
「じゃあ、やっぱりあたしに似たのね。お母さん、恋い多き乙女だったから……」
 慌てたのは、お父さんだ。
「おい、なんだそれは。俺は聞いていないぞ!」
「まあ、一々言う必要もないでしょう?」
 あらら? 話が変な方に向いちゃった。
「あのね、お父さん、お母さん」
 あたしは、二人の間に割って入った。
 御飯時に夫婦喧嘩をされると、たまらないのよね。ダイニングは戦場より、ヒサンになるんだもの。
「今度の人はね、『マッスル・ガールだなんてひどい』って言ってくれたのよ。『こんな可愛い子に、ひどい仇名だ』って」
「ほら、お母さんの言った通りでしょう? そんなふうに、人の噂なんか、気にしない人があらわれるのよ」
 お母さんが、にっこりと笑う。
「おい、さっきの話が終わってないぞ!」
「どんな人なの?」
 お父さんを無視して、お母さんが言う。
「背が高くて、ちょっとスリムで、切れ長の目の、りりしい美男子。うん。あれは美少年とか、ハンサムとか言うより、美男子と言うべきよね」
「そんな男のことより、さっきの話は……」
「で、名前は?」
 ほんとにきれいさっぱりお父さんを無視して、お母さんは言った。いつもこうして無視されてる間に、お父さんは気が抜けてしまうのだけど……
「名前はねえ……」
 あたしは、家庭の平和を守るため、会話を続けようと口を開いて……硬直した。
「どうしたの、未来?」
 お母さんが、怪訝そうな顔をした。
 お父さんも、あたしの顔を覗き込んだ。
「名前……聞いてない」
 そうよ、あたし、あの人の名前を知らない。
 なんてトジ! なんて大ボケ!
「でも、名前なんて、調べればすぐわかるし……」
 お母さんが言うのを耳にしながら、あたしはフォークに手を伸ばした。
「フォローなんてしないで。あたし、自分の阿呆さ加減に頭にきてるんだから」
 グサッ。
 豚にフォークを突き立てる。
 自己嫌悪に陥ったあたしは、ヤケ喰いで憂さばらしをするのが常で……
 ええい、喰ってやる!
 恋煩い、何処吹く風。
 にわかに食欲を増したあたしを見て、お父さんがつぶやいた。
「健康は食から。まあ、食欲があるのに越したことはないからな」

 翌朝のことだった。
 我が家の朝は早い。
 五時半には、家族全員(と言っても、三人だけだけど)が起き出している。
 身支度を済ませて、あたしとお父さんは、朝のトレーニングをする。軽く柔軟体操をしてから、トレーニングルームでウエイ卜トレーニング中心のメニューをこなしてゆく。
 毎日、これをしないと目が覚めないの。
 体を動かしているうちに、全身が火照ってくる。ダンベルを持ち上げるリズムに、呼吸のリズムが合う。額を伝う汗さえ心地よい。
 トレーニングを終えて冷たいシャワーを浴びると、すっきりして、『今日も一日、がんばるぞ』なんて、何をがんばるのかわからないけど、そんなことを思ったりする。
 その間に、お母さんは朝食を用意して、八時に食事、八時半には、あたしは学校に行くのだ。
 けれど、今日は少し違っていた。
 朝食を食べ終わって、歯を磨いている時だった。
 ピンポーン。
 玄関のチャイムの音。こんなに朝早く、誰かしら?
 そんなことを考えながら、口をすすいでいると、バタバタと足音が聞こえてきた。
 洗面所に顔を出したのは、お母さんだった。
「ちょっと、未来。男の子が迎えに来たわよ! 早く支度しなさい!」
「へ?」
 男の子? 迎え?
「あれが例の彼なの? もう、お母さんびっくりしちゃって……」
 お母さんは、ほとんどパニックを起こしていた。
 でも、彼が迎えに来るわけないのよ。
「しかも、外には運転手つきのロールスロイスが待ってるじゃない! 彼、お金持ちなのね」
「ちょっと待って! ロールスロイスですって?」
 そんなことしそうな奴、一人しか知らないわよ。
「名前、聞いたの?」
 答えは分かってるんたけど、一応聞いてみる。
「市川時夫って、言ってたわよ」
 やっぱり。
 頭が痛くなってきたわよ。

「い−い? あたしがこの車に乗ったのは、他人の迷惑を考えたからなのよ!」
 あたしは、隣に座った時夫に言った。
 だってねえ、『学校まで送る』って言うのを断わって歩き出したら、この大きなロールスロイスで、のろのろ運転でついて来るのよ。この住宅街の狭い道路で、この馬鹿でかい車が、あたしの歩く早さにあわせてのろのろやってるのよ!
 後ろの車は道幅が無いから追い越せなくて、クラクションをガンガン鳴らすし、それを聞いて、近所の人は出てくるし。仕方ないから、あたしは時夫の言うままにこの車に乗り込んだのよ。
「はいはい。わかってるよ」
 時夫は、あいもかわらぬにやにや笑いを浮かべて言った。この笑いが、かんにさわるのよね。
「少し遠出をしよう。鈴木、海の方にやってくれ」
 時夫の言葉に、運転手さんが『はい』と答える。
「ちょっと、学校はどうするのよ!」
「大丈夫。今日は、学校へ行かなくても、出席扱いになるように、手配したから」
 はん。多額の寄付金のなせるわざね。
「じゃあ、あたしがこの車に乗っている必要もないわけね。降ろしてくれる?」
「いやだね」
 時夫は、真面目な顔をして言った。
「それって、誘拐よ」
「だって、こうでもしないと、まともに話もさせてくれないじゃないか」
 聞きたくもないことを言う、あんたの方が悪いんでしょう!
「俺、運がいいんだ」
 ふくれているあたしを、お母さん並みにきれいに無視して、時夫は言った。
「とにかく、やたら運がよくてさ。毎年、おとし玉付き年賀葉書の一等から始まって、年末ジャンボ宝くじまで、くじとか抽選とか、はずれたことがないんだ。くじ運だけじゃない。物心ついてから、俺、障害らしい障害に出会ったことがないんだ」
 言い切ったわね。御大層な自信だこと。
 そんなことを考えていたら、突然、時夫があたしの方に振り向いた。
「……このままじゃ、いけないんだよ」
「なんで?」
 だって、運がよくて困るなんて、聞いたことがない。
「俺、調子に乗りやすいタイプだから。こんなふうに運がいいと、絶対に調子に乗ってて、増長しちまうんだ」
「そのままでも、十分増長してると思うわよ」
 あたしはつぶやいた。
「そういうことを言ってくれるのは、未来ちゃんだけなんだ」
 時夫は苦笑した。
「いろんな女の子を知ってるけど、百万の小切手を破ったのは、そのうえ俺を殴った女の子は、未来ちゃんだけなんだ」
 時夫は、じっと、あたしの目を見つめた。
「俺、本気で、未来ちやんが好きだよ」
「え……?」
 突然の告白にどぎまぎしていたら、時夫は眉を寄せた。
「信じてくれない?」
「……うん」
 とりあえず、うなずいてみる。
「そうか……」
 そうつぶやいて、時夫は顔を伏せた。
 あ、傷ついたかな?
 そりや、真面目に話していて、信じてもらえないって悲しいもんね。
 どうしよう……
「鈴木」
 うつ向いたまま、時夫は運転手さんに声をかけた。
「一番近いラブホテルにつけてくれ」
「な……?」
 ちょ、ちょっと、それ……!
「未来ちゃん」
 時夫が、がばっと顔を上げた。
「君が俺の愛を信じてくれないのなら、俺は、全身でその愛を証明するよ!」
 え?
 だって、そんな!
 やだっ!
 思わず顔が引きつる。
 と、突然、時夫の顔に、あのにやにや笑いが復活した。
「本気にしたの?」
「へ?」
「まさか……ね。だって、未来ちゃんの同意無しに、どうこうできるわけないだろう? 押し倒す前に半殺し……」
 時夫が全部言い終わる前に、あたしの掌底が、時夫の顔にめり込んでいた。



 何だかんだと言いつつ、ともかく時夫は、始業時間に間に合うように学校に送ってくれた。
「まったく、何考えてるんだろ、あの男!」
 あたしは、昨日と今朝の経緯を聖子に話して、そうわめいた。
「でもさ、あんたか硬派組の面々をのした『マッスル・ガール』って知っていて、まともに話してくれる男って、あいつだけじゃない?」
 聖子は、頬杖をついて上目使いにあたしを見上げた。
「あんまり邪険に扱っちゃ、可愛そうってもんよ」
「あいつだけじゃないもの」
 あたしは、聖子に言った。
「『マッスル・ガールだなんて、かわいそうだ』って言ってくれた人、いるもの」
「そんなの、社交辞令よ」
「ちがうわよ!」
 聖子は、あんまりあたしがむきになって言うのに、驚いたようだった。頬杖をやめて、あたしの顔を覗き込んだ。
「ねえ、その人って、誰?」
「意地悪したから、教えてあげない」
 あたしは、そっぽを向いた。
「ねえ、教えてよ。一体誰なの?」
 聖子が、好奇心を表に出した顔で言う。
 けれど、教えられるわけ、ないのよね。
 なんたって、あたしでさえ、どこの誰なのかわからないんだもの。
 ふう。
 あたしは、溜め息をついた。
 あの人、名前、なんていうんだろう?
 二年生だってことは確かなのよね。
 一般生徒かな? それともどこかの組の……ううん。そんな感じじゃなかった。ナンパ組員に独特の雰囲気もなかったし、硬派組には入れそうにもないし、走り屋組員って感じでもない。極悪組なんて、想像もつかない。
 きっと、ちょっと成績が良くて、苦手教科が一つや二つあって、体育は割と得意な明朗快活スポーツマンなんだ。
 うん。間違いない。
「ちょっと、未来。何、にやにやしてんのよ。不気味──!」
 聖子の言うのも気にならなかった。
 今日一日、この調子でにへにへ笑い続けたあたしは、放課後まで、授業中五回も注意を受けた。

 昼休みになると、また、時夫がやって来た。
「ぶっ……!」
 時夫の顔を見るなり、聖子は吹き出した。それから、お腹を抱えて笑いだす。
「あんたも、懲りないわね」
 予測はしていたけど、さすかに呆れながらあたしは言った。
「俺、未来ちゃんの愛を手に入れるためなら、何でもするんだ」
 時夫は、例のにやにや笑いを浮かべていた。
「そのアザ、未来にやられたの?」
 お腹を押えて、目尻の涙を拭いながら、やっとの思いでといった感じで聖子が言った。
「目立つかな……?」
 時夫は、右目のまわりにまるくついたアザをさすった。
「目立つ。ものすごく」
 聖子は、喉を鳴らして笑っている。
「殴られるようなことを、言うほうが悪いのよ」
「未来ちやんのリアクションが面白いから、つい、からかっちゃうんだよな」
 次の瞬間、あたしは時夫のボディーに左フックを叩き込んでいた。
「食事時なんだから、吐くんじゃないわよ」
 みぞおちを押えて、青い顔をしている時夫の耳元に、あたしはささやいた。人の迷惑を考えて、わさわざ手加減したんだからね。
「あたしがあんたを嫌う一番の理由はね、あたしが一番気にしていることを平気で言うからよ。しかも、本人は悪いと思っていないから、余計に腹が立つのよ」
 咳こむ時夫にそう言って、あたしは教室を出ようとした。
 ガラリとドアを間けると、目の前に学生服の背中が迫っていた。
「きや!」
「わっ!」
 ぶつかりそうになって思わず悲鳴を上げると、相手もびっくりしたらしく、声を上げて振り向いた。
「あ……」
 振り向いた人は、昨日の二年生だった。
「昨日は、どうも……」
 あたしは、彼に頭を下げた。
「あ、いいえ、どういたしまして」
 彼も、あたしに頭を下げた。
 けど、どうしてこの人がここに居るんだろう。このクラスの誰かに用事でもあるのかな。
「あの、誰かに用ですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど・……やっぱり、そういうことかな」
 あたしの言葉に、彼は少し照れたように頭を掻いた。
「よければ呼びますけど……」
「いいんだ、目の前にいるから」
 え……?
「あの……放課後、正門のところで待ってる。迷惑でなかったら、一緒に帰らないか?」
 少し顔を赤くして、小声で彼は言った。
「でも、名前も知らないのに……」
 やだ、何言ってるんだろう?
 彼は目を見開いて、それから困ったように笑った。
「初めまして。東山志郎です」
 右手を差し出しながら、彼は言った。
「佐伯未来です」
 あたしは彼の手を握った。
「ちょっと、時夫君」
 聖子の声が聞こえてきた。
「強敵出現ね」

「悪いことをしたかな」
 彼、東山さんは言った。
 大通りから、二つ通けを隔てた住宅街を、あたし達は歩いていた。この辺りは静かで、人と話しながらのろのろ歩くには丁度よい。
「なんのことです?」
「いや。他に、一緒に帰る相手がいるんじゃないかと思って……」
「そんな……」
「特定の、彼はいないの? こんなに可愛いのに?」
 面と向かって言われると、何も言えなくなる。あたしはうつ向いた。
「だとしたら……ラッキーだな」
 どういう意味?
 やっぱり、そういうことかな?
 ふと、東山さんの足が止まる。
 何だろう?
 あたしも立ち止まり、東山さんを見上げた。
 東山さんは、硬い表情で前を見ていた。彼の視線を追ってみると、そこには極悪組の奴等がいた。
「へっ。怪力娘も、一人前に男がいるのかよ」
 この間、腹いせにのした奴等が、仲間を引き連れて報復ってわけね。
 けど、タイミング悪いわよ! せっかく良い感じになってきたのに!
 奴等は全部で七人。
 あーあ、こいつ等をやっつけたら、東山さんもあたしを、化け物でも見るような目で見るんだろうな。
「この間の礼に来たぜ。覚悟してもらおうか」
 ぐるりとあたし達を取り囲みながら、一人が言った。
「御礼なんてされるほどのことは、してないわよ」
 あたしは、身構えようとした……けれど。
「これ、持ってて」
 胸元に、学生鞄を押しつけられる。東山さんは、青ざめた顔で詰め襟を外した。
「え……? でも……!」
 だって、どう見たってスリムな東山さんが、こいつ等にかなうわけない。
「たとえ佐伯君がどんなに強くたって、こういう時は男が前に出てかなきゃ、いけないんだよ」
 そう言って、東山さんは笑った。
 緊張に青ざめた顔。なのに、この人は笑ってくれる。
「優男が、お相手してくれるのか? 怪我してからじゃ、遅いんだぜ」
 そう言って、一人が拳を振り上げた。
 やだ。見てられない!
 あたしは、ぐっと目をつぶった。
「ぐうっ」
 低いうめき。
「東山さん!」
 思わず、あたしは目を開け叫んだ。
 しかし、目の前でみぞおちを押えてうずくまっていたのは、極悪組の一人だった。

「てめえ、覚えてやがれ!」
 使い古された捨てぜりふを残し、極悪組の奴等が逃げて行く。
 あたしは、荒い息をつく東山さんの背中を見つめた。
 これは、夢じゃないかしら?
 あたしは、呆然と見ていただけ。東山さんは、一人で極悪組の奴等をやっつけてしまった。
「佐伯君、怪我は?」
 振り向きながらそう言った東山さんの目元には、血がにじんでいた。
「東山さん、血が……!」
 あたしはポケットから、ハンカチを引っぱり出した。
「ああ、大したことないよ」
 東山さんは、あたしの差し出すハンカチを押し返して、手の甲でそれを拭った。そして、あたしに向かって笑った。
「やられるかなって思ったけど、君に助けられるなんてみっともないから、かんばっちゃったよ」
 東山さんの顔には、少しアザが浮いていた。明日になれば、腫れてしまうだろう。
「逃げちゃえば、よかったのに……あれくらいの人数なら、あたし、平気なのに」
 あたしが言うと東山さんは、ムッとしたように言った。
「好きになった娘を守れなくて、何が男だよ!」
 そう言ってから東山さんは、自分の言葉に照れたのか、口をとがらせて頭を掻いた。
 東山さんの顔には、アザか浮いて髪も乱れていたけど、こんなにかっこよくて素敵な人、見たことがなかった。

(5)へつづく


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