薄暗い地下への階段の突き当たり、準備中の札のかかった扉を押すと、やはり
薄暗い店の中から、押し殺した笑い声が聞こえてきた。
「遅かったな、朝倉」
俺は、タバコの匂いのする空気を押し分けるように、店内に足を踏み入れた。
後に渡辺が続く。
「何だ、後の奴は?」
「一人で来るのが怖かったのか?」
下卑な笑い声。
「生徒会長様が、戦力になるとも思えないがな」
俺はフロアの中央に進み出ながら、辺りを見回した。
長いバーカウンター。天井のライトはほとんど消えていて、今は、開演直前の
劇場くらいの明るさしかない。
意外と広いフロア。……広いわけだ。テーブルと椅子が、隅の方に積み上げら
れている。よく見ると、カウンターの中の棚も空っぽだ。
「容子さんはどこだ?」
渡辺の言葉に、カウンターの上に腰掛けてタバコを吸っていた一人が笑う。
「ここだよ」
ひょいと、カウンターの向こう側に降りると、猿轡を噛ませ、後ろ手に縛った
容子を引き立てる。
容子は俺達を見ると、大きく首を振り、モゴモゴと何事かを言おうとしてい
た。
「何もしちゃいないだろうな?」
「よせよ、冗談じゃ済まなくなる」
俺の左腕を折った奴が言う。
「ただ俺達は、貴様の綺麗な顔を、ボコボコにしてやりたいだけなんだ」
特殊警棒は、今回はなかった。
その代わりに四人が手にしていたのは、こ汚い靴下だった。靴下……ハイソッ
クスを二重にして、中に砂と鉛の粒を詰める。口を縛って持てば、立派なブラッ
クジャックになる。思い切り殴っても外傷は残らないが、内部に与えるダメージ
は大きい。
「凶悪なもの、持ってんな──」
俺は呆れた。
四人は、ぐるりと俺と渡辺を取り囲んだ。
「あ──。一つ、質問していいかな?」
渡辺が、妙に上ずった声で言った。こいつ、びびってるのか?
「その靴下、まさか、さっきまで履いていたとか、言わないよな?」
「安心しろ、水虫持ちはいないはずだ」
その言葉が終わらないうちだった。
意外なことに、一番最初に仕掛けたのは、渡辺だった。
「何が安心しろだ、汚ねえだろ!」
げしっ!
冗談抜きで、そういう音がした。
渡辺の右足の靴底が、正面から、目の前の奴の顔にめり込んでいた。豊川高の
奴等も、キョトンとした顔で渡辺を見ていた。
「そういうのはだな」
その足を引きながら、渡辺が言った。声が微かに震えていた。
「僕の美意識が許さないんだよ!」
引いた足で、自分の身に何が起きたかわからないと言った顔の相手の足の間
に、容赦ない蹴りを入れる。
白眼をむいてぶっ倒れる奴に、俺は心底同情した。
「貴様……!」
渡辺へとブラックジャックを振り上げる奴に、俺は左のジャブを放った。
「っつ……!」
痛みが背骨を突き抜ける。
俺の前に立った二人は、ニヤリと笑い、意味ありげに目配せをした。
「『左の朝倉』も、『左』が使えなけりゃ、怖かねえな」
「そりゃ、甘いんじゃないか?」
俺は、右側からかかって来た奴をかわしながら、正面から時間差攻撃を仕掛け
ようとした奴のアゴを右足で蹴り上げた。
ポクンとアゴが鳴る。
かわされた男が、バックハンドでブラックジャックを横に振る。
それを後に下がって避けた俺は、ついでに、アゴを蹴られてふらついている奴
に、左のエルボーを、まずみぞおちに、倒れかかったところで首筋に叩き込む。
視界の隅に、四人目とやりあっている渡辺が見えた。
「へっ……やっぱり、『これ』じゃ、勝てねえな」
俺の目の前の奴(俺の左腕を折ってくれた野郎だ)は、傍に倒れ込んだ仲間を
気にする風もなく、ブラックジャックを捨てた。
「フクロにした証拠が残ると後が面倒だから使わないつもりだったが、やっぱり
これが一番だ」
そいつが取り出したのは、細身の飛びだしナイフだった。
あきれるを通り越し、俺は呆然とした。
「あっぶね──奴だな」
俺の言葉に、そいつは笑った。
「命まではもらわねえよ。ちょっと大きな傷が残るかも知れないがな」
クルッ。パシッ。
ナイフをほうり投げ、受け止める。それを何度か繰り返す奴の手元を見て、俺
は唇を噛んだ。扱いに慣れてる。厄介な相手だ。
「いくぜ!」
短く叫び、そいつはナイフを振るった。
横になぎ払うように、銀光が走る。
三度目に奴が腕を振るったとき、ワイシャツの布が裂けた。五度目に、胸をか
ばった左腕の包帯が切られた。
俺は店のコーナーに追い詰められた。
「もうおしまいだな。そこじゃ、足技は使えない。自慢の左手は傷物だ。覚悟を
決めるんだな」
そいつは、唇を舐め回して笑った。
「朝倉!」
渡辺の叫ぶ声。それに弾かれたように、奴はナイフを握った腕を真直ぐ俺に突
き出した。
俺は左腕で、ナイフを持った奴の腕をはね上げた。激痛が跳ねる。俺は、歯を
食いしばってそれに耐えた。
奴の驚いた顔が、目の前にあった。
そのど真ん中に、俺は右ストレートを叩き込んだ。
ひっくり返った奴を見下ろし、俺は荒い息をついた。
「無事だったか」
ほっとしたような渡辺の顔。
いつもは、キッチリ分けてある髪が乱れ、白い額にかかっていた。それが汗で
張り付いている。
『案外、やるもんだ』
そう思った矢先だ。
「せっかく、カッコよく助けてやろうと思ったのに……」
俺は、渡辺の澄ました顔を、靴底でぐりぐりとやってやりたい衝動に駆られ
た。
「ウ────!」
カウンターの中で、ばたばたと音がする。
「おっと、忘れてた」
俺はカウンターを乗り越え、容子さんを引っぱり出した。
フロアに立たせ、俺が腕のロープを、渡辺が猿轡を外してやる。
「大丈夫か? 怖くなかったか?」
俺が、解いたロープを手に起き上がった時だ。
吊り上がった容子の目が、俺を睨んでいた。
「バカッ!」
強烈な平手打ちだった。
俺と渡辺は、二人そろって左頬を押さえ、間の抜けた面で容子を見返した。
容子は肩を震わせ、俺達二人をねめつけていた。
「あんた達、ケガしたらどうするつもりだったのよ! 分かってるの? あんた
達の頭の中のイメージを表現することができるのは、あんた達の体しかないの
よ! それを、ケガでもしたら……!」
ぼろぼろと、容子の目から涙が落ちた。
「あんた達の夢が、かなわなくなるじゃない……!」
「ああ……かなわねえな……」
俺はつぶやいた。
結局容子にとって、俺達はヒーローにはなりえないらしい。この怒り方、母親
の感覚に近いぞ。
渡辺も、同じことを感じていたのだろう。俺の方を見て、苦笑する。
「容子さん、わかったよ」
諭すように、渡辺は言った。
「もう二度と、こんなことはしないから。今度ケンカになりそうになったら、絶
対に逃げるから。だから……」
お仕置きしないでくれと哀願する、子供のようでもあるな。
そう思いながら、俺も言った。
「容子が心配するようなことは、もう絶対しないから……な。だから、な」
「約束よ?」
「約束する」
容子は俺達がうなずくのを確かめてから、初めて、子供のように声を出して泣
いた。
夏休みが明けて学校に出て行くと、教室の中が妙にざわついていた。
「どうしたんだ?」
そばにいた奴をつかまえると、そいつは興奮したように言った。
「ああ、朝倉。おまえ、生徒会長と親しいんだよな?」
「まあな」
「じゃあ知ってたか? 渡辺生徒会長が、志望校を東大理3から、服飾専門学校
に変えたって。デザイナーになるんだと!」
あの男、抜け駆けしやがって!
俺は舌を鳴らした。
「職員室はパニックだとよ」
「校長と教頭と担任と、三人がかりで説得したけど駄目だったんだそうだ」
そんなことを言い合う級友達を残し、俺は三年の教室へ向かった。
「渡辺!」
俺がドアを開けて呼ぶと、渡辺は余裕の笑みを浮かべながら近付いて来た。
「てめえ、どういう心境の変化だ? 合格間違いなしの東大をけるって? 世の
受験生に殺されるぞ!」
「いやなに。早く一人前にならないと、容子さんに認めてもらえないからな……
わあ!」
俺は、小憎たらしい渡辺にブルドッキング・ヘッドロックをかけながら、心に
決めた。
月刊A-HAの編集部に電話しよう。
デビューの話をOKするんだ。
畜生。
渡辺なんかに、負けてられるか。
『祐一郎のショーを見た後で、徹の単行本を買って帰る』……
待ってろよ、容子。
必ずその夢、実現させてやるからな。