「今日はね、買い物に行くの」
容子は、部屋に入るなりそう言った。
「んー」
カリカリとカケアミを描く手を休めずに、俺は生返事をした。
たまたま6時限目が課題の無い自習だったので、教室を抜け出し、この部屋の
自分の机で放課後の今までずっと原稿を描いていたのだ。
「でね、徹。買い物、つきあってくれない?」
「悪い。今、のってるんだ。手が離せない」
いいテンポで細かい線を描き込む。手描きの効果は、一気に描いた方が印象が
一定になって、綺麗なんだよな。途中で休んじまうと、線のタッチが微妙に変
わったりするんだ。
「え──! それ困る!」
「僕が一緒に行くよ」
容子よりも少し早く部屋に来ていた渡辺が、不満声の容子に言う。
「祐一郎じゃ、駄目なの!」
妙にキッパリとした容子の言い方が気になって、俺は手を休めて振り向いた。
案の定、渡辺はソファーでしゅんとしていた。この男は、容子が相手だと、時
折とんでもなく子供っぽい反応をする。
「お願い、徹。一緒に買い物に行って」
しかたがない。俺は、丸ペンの先をティッシュで拭った。
「お前さ、あの言い方はないだろう?」
駅までの道を歩きながら、俺は言った。
「あれじゃ、渡辺の奴がかわいそうだろ」
「だって、祐一郎のバースデイプレゼントを買いに、祐一郎と行くわけにはいか
ないでしょう?」
なるほど。
「プレゼントは、もう決めてあるの。6千円もする、駅北の『タカノ』にあった
六十色の色鉛筆のセット。誕生日までにはまだ間があるんだけど、売り切れると
取り寄せに時間がかかるって言われたから、早めに押さえておこうと思って……
二人でってことで、半額出してもらえる?」
「なんだ」
俺は肩をすくめた。
「容子のことだから、とんでもなく高価な物をプレゼントするのかと思ってた」
容子は俺の言葉に、わずかに眉を寄せた。
「だって、あたしのバイト料だと、それ位しか買えないんだもの」
「バイト?」
「うん。日曜日だけの、ファーストフードショップの売り子さん。時給、安くっ
て……」
「でも、何でバイトなんかしてるんだ? 有り余るほど金があるのに?」
「おじいちゃんからもらったお金で、友達へのプレゼントを買うなんて、卑怯な
感じがするの」
「……じゃ、俺の誕生日にも、プレゼントをくれるのか?」
「もちろんよ」
「でもな。俺の誕生日は4月だから、まだまだ遠いな……前払いで、なんかくれ
よ」
茶化す俺の顔を見上げながら、容子はくすくすと笑った。
「優しいんだ」
「え?」
「わざと、話を逸らせてくれたでしょう? あたしが、おじいちゃんのこと、あ
まり良く思っていないって感じて……以前にも、こんなことあったよね」
つまらない小細工が見つかってしまった。俺は、容子の顔をまともに見ること
ができなくなった。
「あたしのお母さん……つまり、高松のおじいちゃんの娘にはね、許婚者がいた
の。だけど、お母さんは、さえない画家と駆け落ちしちゃったのね。その画家
が、あたしのお父さんだったってわけ」
歩きながら、ぽつりぽつりと容子は言った。
「その許婚者ってのが、時の総理大臣の甥っ子だったこともあって、大スキャン
ダルでさ。おじいちゃんは、怒り五割、意地四割、後の一割世間体で、娘を勘当
しちゃったの」
確かに、そりゃ、勘当もされるだろう。
「でも、お母さんは幸せだったの。食べるためにキャンバスを捨てて看板描きに
なったお父さんと、結婚して二年目に生まれたあたしと、幸せに暮らしてた。
それがね、去年の春、あたしが、清涼高校に入学する直前に、二人とも交通事
故で帰らぬ人になっちゃったのよ」
人気の少ない裏通りを歩きながら、容子はそっと目尻を拭った。
「お通夜のとき、はじめておじいちゃんに会ったの。おじいちゃん、お母さんの
棺にとりすがって、子供のように声を上げて泣いていた。『許してくれ』って、
何度も言ってた。あたし、本当にこの人はお母さんの親なんだなって、思った。
本当に、お母さんを愛していたんだなって分かった。
だから、あたしの面倒を見たいって言われたときに、素直にうなずけたの」
容子の足が、ピタリと止まった。うつむいて、じっと足元を見ている。
泣き出すのかと思った。
しかし容子は、きっと顔を上げて言った。
「けどねえ、おじいちゃんの援助って、並みじゃないのよ! 通帳とカードをく
れたから何かと思ったら、毎月百万単位の振込があるし、何かあると、ぽんと預
金の金額が増えてるし……悪気はないんだけど、どういう風に自分の好意を示し
ていいか分からないのね。自分にあるのはお金だけだからって、文字通り有り余
るほどくれるの。
今じゃあたし、利子生活者よ!」
「確かに、有り余ってるな」
再び歩き出しながら、容子は続けた。
「あたし、ただの女の子よ。もともと、そんなに裕福な暮らしをしていたわけ
じゃないから、そんな大金をもらっても、困るだけなのよね。……で、決めた
の」
「何を?」
「生活費として、月に十五万円もらう以外は、決して自分のためにお金を使わな
いって」
「自分のために使わないなら、何に使うんだ?」
「他人の夢のために、使いたいと思ったの。夢はあるんだけど、正面切ってその
夢を実現させるための努力ができない人のために」
そう言って、容子は小さく笑った。
「お父さん、キャンバスに向かうことはなかったけど、お母さんには内緒で、ク
ロッキーやスケッチは続けていたから」
ああ、そうか。
俺は納得した。
「なあ、聞いてもいいか?」
俺は言った。
「容子自身の夢って、ないのか?」
容子は、驚いたように俺を見上げた。それから、例の小悪魔的な笑みを浮かべ
て言った。
「祐一郎のファッションショーに行って、その帰りに徹のコミックスを買うこ
と」
「そりゃ、叶わぬ夢かもしれないぜ」
俺の言葉に、容子は黙って笑った。
駅の近くで、俺達の耳は女の悲鳴を捕えた。
「何だ?」
反射的に声のしたほうに目を向けると、そこには見慣れた男達がいた。
「豊川高のアホ共が!」
俺は男達の中に同じクラスの女子を見つけ、舌打ちをした。
「徹……」
「悪い、持っててくれ」
俺は容子にカバンを押し付けた。
近付いて行くと、男達の手から自分を守るように胸にカバンを抱えていた早坂
と目があった。彼女のほっとしたような表情が、俺の自意識をほんの少しくす
ぐった。
「朝倉君……!」
彼女の言葉に、豊川高の奴等は一斉に振り向いた。
「おう、朝倉。久しぶりじゃねえか!」
ぎりぎりと、奴等の緊張が高まってくるのがわかる。
早坂が俺の傍に逃げてくる。
「かっこつけてんじゃねえよ、このタコ!」
「オンナの前だからって、いいかっこしてると大ヤケドするぞ」
俺は、奴等の乏しいボキャブラリーを楽しみながら、そっと彼女を背後に押し
やった。
「今日こそは、その綺麗な顔に、ばっちり青アザつけてやるぜ。それとも、親で
も見分けがつかねえツラにしてやろうか?」
「冗談はよしてくれ」
俺は言った。
「てめえ等のような顔になったら、困るじゃないか」
奴等の頭の中が俺への怒りで一杯になると同時に、彼女のことは完全に意識の
外に出てしまったらしい。
奴等は俺が突き飛ばした彼女には目もくれず、俺に殴りかかってきた。
総勢四名。
まず、一人目の右ストレートを軽くかわし、そいつの顎に左フックを叩き込
む。もう一人のみぞおちにボディーブローを食らわせたときだ。ジャキン、ジャ
キンと、凶悪な金属音が二つした。
「げっ! 汚ねえぞ、てめえら!」
俺は思わずわめいた。残った二人が手にしているのは、折り畳み式の特殊警棒
だ。下手にくらったら、骨までやられるぞ。
「うるせえ、汚ねえもクソもあるか!」
二人で同時にかかってくる。左右から警棒を振るうコンビネーションはなかな
かのもので、俺は後退を余儀なくされた。
その時だ。
「えいっ!」
かなり間の抜けた掛け声と同時に、一人の男の顔に背後から赤い布が巻つけら
れた。清涼高校のセーラー服のスカーフだ。
隣でもがく男に気をとられ、もう一人の振りかぶった手が止まった。俺はすか
さず、そいつの警棒を持つ手を押さえ、みぞおちに蹴りを入れた。そのままそい
つの脇をすり抜け、スカーフ攻撃を仕掛けた容子の腕を掴む。
「危ないだろう、バカ! 逃げるぞ!」
そのまま逃げようと思ったときだ。
「徹!」
容子が、俺の背後を見て叫んだ。振り返ると、残った一人が特殊警棒を振りか
ぶったところだった。
かわすことはできなかった。俺がここで体を動かしたら、後ろの容子が危険
だ。
俺は左腕を上げ、頭部をかばった。
嫌な音がした。
「Shit!」
俺は、そのまま左腕を振り、警棒を横に払った。体勢を崩した奴の腹に蹴りを
入れる。
アスファルトに倒れたそいつの顎を、腹立ち紛れにもう一度蹴飛ばしてから、
俺は左腕を抱えてしゃがみ込んだ。
左腕尺骨の単純骨折、全治二ヵ月、ギプス付きと、一ヵ月の停学。
割の合わないケンカだった。