隠し部屋のドアを開けた俺は、中から聞こえてきた音に首を傾げた。
これは、確かに電動ミシンの音だ。
有栖川が使っているのか?
そう思いながら部屋の中を見た俺は、次の瞬間、叫び声を上げていた。
「わっ……渡辺────っ?」
電動ミシンの音がピタリと止まった。振り向いた渡辺は、照れ臭そうな笑みを
浮かべていた。
「いらっしゃい、朝倉君。祐一郎も一休みして、お茶にしよう」
昨日とは違うデザインのパステルグリーンのエプロンをした有栖川が、ニッコ
リと笑った。
「もう少しで、ひと区切りつくから……」
渡辺は、つぶやくように言って再びミシンに向かった。
「本当に熱心なんだから」
何やら嬉しそうな表情で、有栖川は言った。
「おい、有栖川。どうして渡辺がミシンで花柄プリントを縫っているんだ?」
「あれ? 教えてなかったっけ?」
俺の言葉に、有栖川は驚いたようだった。それから、例の小悪魔的な微笑みを
浮かべて言った。
「祐一郎はね、あなたの同類なのよ」
「同類?」
「そう、『人には言えない秘密』ってのを持っているの」
「『人には言えない』って、まさか……」
俺は、部屋の隅のドレスを見た。
「そう、祐一郎には女装癖があるの」
くらっ……
めまいを感じて、俺は椅子に座った。
渡辺祐一郎って、どちらかといえば運動部的体型をしてるぞ。手足は長いが、
身長はあるし、胸板は厚いし、肩幅もある。顔も良いが、完全に男の顔だ。こい
つが女装した姿というのは、あまり想像したくない。
「まあ、本人が女の子の服を着て満足できたのは、小学生の頃までだったそうだ
けどね。中学生になってからどんどん成長しちゃって、好みの服が体型に似合わ
なくなったから、女装はやめたんだって」
「賢明な判断だ」
「で、女装したいという欲求を、婦人服を作るという行為で、昇華しているの
よ」
「そんな風に言われると、僕がまるで欲求不満のように聞こえる」
一段落したのか、こちらに来ながら渡辺は言った。
「ただ僕は、『装う』という行為と『美』との、究極の妥協点を、模索している
だけだ。そのために作った服を、自分で着ることができないのは、残念だとは思
うけれど」
「だから、あたしが着てあげてるでしょ?」
「容子さんは『美しい』タイプじゃなくて、『可愛らしい』タイプだから……」
そう言うと渡辺は、俺の顔をちらりと見た。
「朝倉……おまえ、キレイな顔してるな」
「へ?」
「体つきも、まだ少年体型だし、あと一年は女装しても似合うだろうな」
「冗談じゃない! 俺はお前と違って『変態』じゃないぞ、このホモ野郎!」
俺がうろたえるのを見て、有栖川は声を上げて笑った。
「この多様化する現在の社会の価値観の中で、何を持って『変態』と定義するか
というのは個人によって異なる。故に、僕は自分を『変態』とは思わないが、君
が僕を『変態』と呼ぶことは否定しない。しかし注意しておくが、女装癖のある
人間が必ずしもゲイとは限らないし、僕自身もゲイではない。
今のような発言は、偏見に満ちた差別的発言だ。気をつけたまえ」
涼しい顔で、渡辺は言った。
「……このことを教師共が知ったら、パニックだぞ。学年トップの生徒会長が、
実はこんな人間だったなんて……。いっそのこと、俺が教えてやろうか?」
「君の秘密をバラされてもいいのなら、そうしたまえ」
渡辺は、ニヤリと笑って言った。
俺は、その顔にケリを入れてやりたい衝動を、やっとの思いで押さえ込んだ。
三人分のコーヒーを出した有栖川は、俺に向かって両手を差し出した。
「朝倉君、原稿、見せてくれる?」
「……はい」
逆らえない俺は、素直にクラフト封筒を差し出した。
「これで全部?」
「それは一作目から三作目まで。あと四作と、今書いている作品は、また今度」
ケント紙というのは、これでなかなかかさばるものだ。十六枚の作品を三作も
入れれば、俺の学生鞄は一杯になってしまう。(もっとも、目一杯つぶしたやつ
なのだが)
クラフト封筒を受け取ると、有栖川はテーブルを離れ、ソファーの方へと行っ
た。
「あ、そうだ」
いったんソファーに腰掛けてから、何かを思い出したように立ち上がった。
キッチンに立ち、いやに時間をかけて手を洗ってから、有栖川は再びソファー
に座った。
「どうして、こっちで見ないんだ?」
その行為があまりにも不自然に見えたので、俺は聞いてみた。
「だって……」
有栖川は顔を上げ、意外そうに言った。
「だって、大事な原稿を、間違って汚したら大変だもの。取り替えしがつかない
でしょう?」
「あ……はい、そうですね」
頓狂な事を言って、俺は封筒から原稿を出す有栖川から目をそらした。
「意外だったか?」
俺の心の中を見透かすように、渡辺が小声で言った。
「あれで結構、気を遣っているんだよ、容子さんは」
「とてもそんな風には見えないけどな」
俺の言葉に、渡辺は笑った。
紙と紙のふれあう音がした。振り向くと、有栖川がページをめくったところ
だった。
それを見たとたん、カッと顔が熱くなった。
有栖川の表情、視線、原稿を持つ手、全てが気になる。
今、どの作品のどのページを読んでいるのか確かめて、いちページいちペー
ジ、どんな感想を持ったのか聞いてみたいと思うと同時に、彼女が何らかの感想
を口にする前に、この場から走って逃げ出してしまいたいと思う。
小さな頃、上手に描けたと思う絵を、母さんに見せたときと同じように、心臓
が高鳴っていた。
自信と羞恥と期待と不安が、混ぜこぜになって頭の中で渦を巻いている。今ま
で感じたことの無い興奮だった。
俺は、無理やり有栖川の持つ原稿から目を離した。
「人に、自分の作ったものを見せるってのは、なかなか恥ずかしいものなんだよ
な。特に、初めての時は」
渡辺が言った。この男、普段は口数が多いようには見えないのだが、この部屋
にいるときは違うらしい。
「裸の自分をじろじろ見られてるような、そんな感じのする恥ずかしさだよな」
確かに、そんな感じだ。
「ねえ、朝倉君」
不意に、有栖川が言った。
俺の心臓が飛びあがった。
「この原稿、しばらく預かってもいいかな?」
「どうしてだ?」
「何度か、読み直したいから」
「……分かりにくいところでも、あったのか?」
不安になって聞いてみると、有栖川は首を振った。
「そういうわけじゃなくて、ただ、一気に読むのがもったいないの。面白いんだ
もの」
『面白い』
その言葉を聞いたとたん、俺の顔は『しまり』というものをなくしてしまっ
た。
「面白い? 本当に?」
俺の問いに、有栖川はうなずいた。
ほう……
気がついたら、長いため息をついていた。
描いていて、描き続けていて良かった、そういう思いがある。人からプラスの
評価を受けることが、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。
「感想、聞かせてくれよ。どこが悪いとか、なんでもいいからさ」
「ん……でも、口で言ったら後に残らないでしょう? 何かに書いておいたほう
が、後々、参考になるんじゃない?」
それもそうだ。
「だから、これを預かって、感想を書いて来るわ」
有栖川は、原稿をクラフト封筒に入れた。
「ところで、朝倉君は、投稿なんかしないの?」
封筒をソファーの上に置いてあった自分の学生鞄に入れながら、有栖川は言っ
た。
「一番最初の作品を見ただけで、実力があることがわかるわ。どこかに投稿した
こと、あるんじゃない?」
「いいや、一度もない。他人に自分の作品を見せたのは、これが初めてだ」
「プロを目指してるんでしょう?」
「そりゃ、なれたらいいだろうけど」
「もしも……もしもよ。もしもどこかに投稿するとしたら、どこの雑誌に投稿し
たい?」
「そうだな……」
俺はいくつかの少女漫画雑誌を思い浮かべた。対象年齢、誌風、読者層を考え
て、それらの中から一つの月刊誌の名をあげた。
「ふうん、月刊A−HAね……」
有栖川はつぶやいた。
「じゃあ、あたし、今日はこれで帰るわ」
ティーカップを置くと、有栖川は立ち上がった。
「一緒に帰らない?」
俺と渡辺に言う。
「僕は、あのサマードレスを仕上げてから帰る」
渡辺はミシンの方に目を向けて言った。
「また遅くなるの? 親が泣くわよ」
「親父もおふくろも、十二時前に帰れば文句は言わないよ」
「片付け、頼むね。朝倉君、行こう」
有栖川は、さも、一緒に行くのがあたりまえといった感じで、俺の手を引っ
ぱった。いつもなら、『ナンダ、コノヤロ』というところだが、今日は特別機嫌
がよかった。
「はいはい……。じゃあな」
俺は渡辺に片手を上げ、立ち上がった。
隠し部屋を出て階段を上がり、地学準備室のロッカーから出る。
「しかし、こんな仕掛け誰がつくったんだ?」
「工事のおじさん」
有栖川はロッカーの扉を閉めた。
「そういう意味じゃなくて……」
「当然、この張りだし教室を作らせた理事長よ」
「じゃあ、なんでおまえたちがその仕掛けを使ってるんだ?」
「あたしのために、おじいちゃんが作った仕掛けだもの」
「おじいちゃん?」
「高松十蔵理事長、あたしの祖父なの」
高松理事長といえば、高松財団会長だ。資産数百億とも言われる……
「おまえ、お嬢様だったのかぁ?」
俺が大声を上げると、有栖川は小さくため息をついた。
「それがね、本人はそんなこと、一年前まで、まるで知らなかったのよ」
有栖川は、どこか能面のような表情で、地学準備室のドアを開けた。
グラウンドの方から、部活動をしているらしいざわめきが聞こえてくる。それ
が聞こえる分だけ、薄暗い理科棟の静寂は、その純度を増したようだった。
有栖川の親族の関係が普通でないのは、容易に感じ取れた。このままこの話を
続けていいものか、俺は迷った。
「渡辺の奴、いつも遅くまであの部屋にいるのか?」
とりあえず、俺は話題を変えた。
「お勉強に熱中すると、徹夜でも平気なのよ。あそこにはシャワーもトイレもあ
るし、奥には仮眠室もあるから、時々泊まっているみたい」
有栖川は、笑みを浮かべながら言った。
「夜中に帰りたくなったらどうするんだよ。校舎の出入り口には鍵がかかってい
るだろう?」
「もう一つの出入り口がグラウンド脇の立ち入り禁止の旧用具室にあるの。あそ
こも同じ鍵で開くのよ」
声をひそめて、有栖川は言った。
「祐一郎の家は、学校の隣の渡辺医院なの。だから、夜中に帰っても、深夜徘徊
で捕まったことはないって」
「で、容子さんの家は、どこなのかな?」
「駅の近くのマンションよ」
「じゃあ、駅まで一緒だな」
俺の言葉に、有栖川は照れ臭そうに笑った。
「祐一郎と一緒に帰っても、校門を出たところでさよならでしょう? 誰かと一
緒に歩くのって、何か嬉しい」
邪気の無い笑み。
初めて会ったときの有栖川のイメージが、次々と新しい物に塗変えられてゆ
く。その全てが新鮮だった。