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ゆっくりとしたペースで、静かにミシンの針を進める。静音タイプとはいえ、ハイペースだと、どうしても大きな音が出るからだ。勉強部屋の防音は完全ではない。親父の耳に届いたらまずいし、母さんや姉貴の睡眠妨害もしたくなかった。 小学生の時、親戚からもらうお年玉や小遣いをためてやっと買った電動ミシンは、高校の入学祝いに母さんにもらった最新型に代替わりをしていた。今ではこれが。俺の三本目の腕だ。 俺は返し針をしてミシンを止め、肺の中に溜まっていた息を吐いた。 中表になっていたものを裏返す。麻混の表地と薄い裏地がうねり、スーツのジャケットが姿を表す。 服を作ってて、たまらない幸せを感じるのはこの時だ。 平面に描かれたデザインが、いくつかの部分に分解され、縫製され、今度は立体として再生する。その不思議な感覚。それと同時に、もっと純粋な、完成の喜びがある。────正確には、完成寸前の喜びだ。 これで終わったのではない。これから最後の工程をしなくてはならない。でも、目の前には今までとは違う、ほぼ完成に近いものがある。 さっきまでは、表地と裏地は別々で、その前は袖も襟もついていなくて、それ以前にはまるでバラバラだった。それが、一つ一つ組み合わされ、縫い合わされて、今ではちゃんとジャケットの形になっている。しかし、これが完成ではない。これからアイロンをかけるという、仕上げが残っている。それがさらに静かな興奮を呼ぶ。 精根込めて描いた龍に、今まさに目を入れようとしている絵師のような心境だ。 ふと時計を見ると、午前二時を少し回ったところだった。 そろそろ、期末試験も近い。姉貴のワンピースとボレロ、久美のサマードレスと作っていて、このところまともに勉強をしていない。今夜はこのくらいにして、明日、アイロンがけをしよう。 特製のマネキンにジャケットをかけて、俺は作業机から離れた。勉強机の前に座り、数学の参考書を広げる。 不定積分、インテグラル、数式の群れ。網膜にはそれらが映っているのだが、頭の中には一向に入っていかない。 ちらりと、マネキンの方に目を向ける。安物のような印象を与えるジャケット。アイロンをかければ、オーダーメイドのような仕上がりになるはずだ。 俺は頭を振って、参考書に向き直った。 アイロンかけと言っても、洗濯したシャツにかけるのとは訳が違う。肩の袖山、バストからウエスト、ウエストからヒップにかけてのなだらかな膨らみ。平面から角張った立体になった服を、三次元的曲線を持つ人の身体に合わせるための作業なのだ。力も要るし、時間もかかる。 それに、ジャケットが完成すれば、スカートも作りたくなるのが目に見えている。テストが近い。スカートを作っていたら、テスト期間に突入してしまう。 ここでアイロンかけなんかしたら、自分に自制心がないことを証明することになる。 しかし…… 俺は自分の自制心が、いかに脆弱なものかということを思い知った。 今までは、注文が重なることはなかった。期限付きというのも少なかった。しかし今回に限って、姉貴と久美の分は六月末まで、母さんの分もできるだけ早くと注文されてしまった。 言い訳を許してもらえれば、それが原因だったと言おう。 いや、結局は自分の欲求のままに行動してしまった自分がいけないのだ。 『苦節二年と一ヵ月。ついに、打倒、渡辺の悲願をはたしたぞ!』 成績上位者のリストが貼り出されたとき増島がそう叫んだというデマは、俺がついに学年トップの座から転がり落ちたという事実と一緒に、学校中に知れ渡っていた。 俺は夏のスーツを手に入れた代わりに、学年トップの座を奪われてしまったのだ。 正直なところ、ショックだった。 趣味と学業を両立させることぐらい、簡単にできると思っていた。それができなければ、自分のわがままを通すことはできないと思っていた。 なのに、なんてざまだ。 「自分で、理由は分かっているんだろうな?」 親父は、点数・順位表を見ながら言った。 「今までは黙認していたが、成績に響くようでは文句を言わざるをえない。自分のやりたいことは、一人前の医者になってからするんだな」 俺は反論できなかった。 俺は、渡辺医院の跡取り息子なのだ。親父は俺が医院を継ぐのが当たり前だと思っているし、俺もそう思っている。江戸時代から続いているという渡辺の家を継ぐ男児は、俺一人なのだ。 これが、医者には到底なれないような成績なら、親父も諦めがつくだろうし、俺も罪悪感を感じることなく放蕩息子になれただろう。なまじ成績がよいから、俺には職業選択の自由もない。 それでも、これは長男の義務なのだ。 「今日からは、学業に専念します」 俺は言った。 『お茶しま専科』は、いつもの通りがらがらで、客は俺達しかいなかった。 「どういうこと?」 久美は、大きく目を見開いて言った。 「だから、これで終わりだってことだよ。もう、服は作らない」 俺はサマードレスの入った紙袋を、久美の方に押しやった。 「どうして? 成績が下がったから? それなら、今度また頑張ればいいじゃない。何もやめなくったって……」 「そういう意味じゃなくって、俺にはもっとほかに、しなければいけないことがあるんだ。遊んでばかりはいられないんだよ」 「遊び?」 久美の表情が、能面のようにかたくなる。 「祐一郎にとって、服を作ることって、デザインすることって、遊びだったの? 禁じられれば、できなければそれでいいって、そんなものなの?」 微かに声が震えていた。 「あたし、祐一郎は、あたしと同じだと思ってた。道を歩いていても、人と話をしていても、一つのことが頭の中から離れない、そんなタイプだと思ってた。 あたしは、気がつくといつも漫画のネタを探してる。綺麗な景色を見ると、『こんなところを舞台にした話を描きたい』って思う。音楽を聞いても、テレビを観ても、感動したことはみんな、無意識のうちに漫画に結び付けてしまう。 漫画とデザインの違いはあるけど、祐一郎もそんな人間だと思ってた」 「買いかぶりだ」 俺は久美から目をそらした。 「嘘つき!」 久美は鋭く言い放った。目を上げると、久美はまっすぐ俺を見据えていた。 「いつも、この店のこの席で言ってたじゃない。『知らない女性に、俺のデザインした服を着てもらうのが夢だ』『制服をデザインしてみたい。学校中の女子が、俺の作った服を着てたら面白いだろう?』『仕事でデザインをするのは確かに大変だ。けれど俺なら、そういう苦労もしてみたい』……そんな話をしている時の祐一郎は、いつだって真剣だったじゃない。 今だって本当は、デザイナーになりたいんでしょう? どうして、自分の夢を嘘でごまかすの? 親の言いなりになって自分の夢を捨てるなんて、男のすることじゃないわよ。あたしなら、たとえ親に感動されようと、絶対に夢をかなえてみせるわ!」 久美は何のためらいもなく、まっすぐに夢に向かって行く。どんな困難が立ちはだかろうと、地道な努力でそれを克服するだろう。しかし、そのまっすぐさが今の俺には鼻についた。 「久美は女だから、そんなことが言えるんだ」 「女も男も関係ないわよ」 「関係あるさ、女は家を継ぐ必要がない。親を養う必要がない。したいことをして、勝手に夢を追って。たとえ失敗しても、最後には結婚という逃げ場がある」 「あたしが、夢に破れたら、最後の手段で結婚する人間だと思うの?」 「自分では意識しなくても、そういう命綱があるってことさ。……もう、こうして会う必要もなくなるわけだな。さようなら」 レシートに手をのばして立ち上がると、その手を久美がつかんだ。 「本当に、夢を捨てられるの?」 「もちろんだ」 俺がそう言うと、久美はきゅっと唇を噛んだ。眉を寄せ、痛みに耐えるような表情を見せる。俺は内心うろたえた。久美のこんな顔は今まで見たことがなかった。 俺の手を押さえていた久美の手が離れる。 「あたし、信じないからね」 久美は言った。 「絶対、祐一郎は夢を捨てるなんてできない。あたしと同じ人間だから、絶対にそんなことはできない。あたし達は仲間なのよ」 「もう、この店には来ないよ」 俺は久美を残し、店を出た。 ミシンを、ソーイングセットを、アイロン台を胴体だけのマネキンを、すべて姉貴の部屋に運び込む。 『踏ん切りをつけるためだ。全部捨ててしまえ』と親父は言ったのだが、それは余りにももったいないと母さんが言ったため、姉貴が使うことになったのだ。 上に何もなくなった作業台は、俺の部屋の中でひどく間抜けな姿をさらしていた。 この上で、今まで何着の服を作ったろうか。 小学校の家庭科で、初めてエプロンを作った。思うように作れなくて、悔しくて、何度も作り直しをしていて提出期限が守れず、その時の家庭科の成績は2だった。 母さんや姉貴に着てもらえるような服を何とか作れるようになったのは中学生になってからだった。始めは簡単なスカート類。それから市販の型紙を使ったタイトスカートやワンピース。自分で型紙を作って、思うようなシルエットを作れるようになったのは、中学二年の時。オートクチュール風のイヴニングドレスを作ったのは、中学を卒業した春休みだ。この時初めて、母さんは俺に手数料を払ってくれた。そして高校に入学してすぐ、久美に夏のスカートを作ってやった。久美が買ってくれた濃い藍色の生地で作ったスカートは、久美にとてもよく似合っていた。 今まで作った服が、次々と頭の中に思い浮かぶ。気に入っているデザインも、欠点のある服も、俺にはかけがえのないものだった。 今までに描き溜めたデザイン画を、まとめて縛り上げる。目にしたらどうしても気になってしまう。かといって、捨ててしまうのは忍びない。他人にはただの紙切れでも、俺にとっては自分自身の過去の記録なのだ。『捨てるべからず』と張り紙をして、納戸に突っ込む。 自分の部屋に戻ると、すっかり雰囲気の変わった部屋が俺をむかえた。 突然、とんでもない欠落感が俺を襲った。当然あるべきものがない。そんな感覚が俺を不安にさせる。 俺は大きく頭を振った。 じきに、この部屋にも慣れる。夏休みに入れば、予備校で勉強三昧だ。余計なことを考える暇もなくなるだろう。大学に入れば、実験だ、レポートだと忙しくなる。国家試験に合格すれば研修医として多忙な日々が待っている。 そうして、頭の中から必要なこと以外を追い出していれば、時間はどんどん過ぎていってくれるだろう。 そしていつか、この夢を思い出として語れるようになるのだ。 どこか薄っぺらな想像で自分を納得させ、俺は勉強机に座った。 |