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「それでは、先週のテストを返す。平均点は六十三点、最高点は百点満点だ」 数学の中田が言うと教室の皆が、一斉に俺の方を振り向いた。俺の席は教室の一番後ろの廊下側だから、三十九人分、七十八の瞳の焦点が、俺一人に集まったことになる。 一人一人の目が、何とも言えない光をたたえ、俺を見据える。────背筋に冷たいものの走る一瞬だ。 「名前を呼ばれた者、取りに来い。相田。浅野。新井……」 中田の声に、皆は何もなかったように、俺から目をそらした。教室に微かなざわめきが還ってきた。 こんな時だ。この高校に入学したのを後悔するのは。 私立鷲見高校は、県下一の有名進学校だ。毎年、東京大学現役合格者のリストの、何パーセントかを占めている。就職するものはおろか、専門学校に進学する者さえいない。短大に行こうものなら、落ちこぼれ扱いだ。 三年分の教科書は二年の二学期までに終わらせ、それからはひたすら、受験対策講座となる授業。まわりはすべてライバルだ、と言わんばかりのクラスメイトの態度。三年生に進級したこの頃では、皆の目の色まで変わってきたようだ。 そんな中では、下手に成績が良いと、目の敵にされる。 「渡辺」 俺は受け取った解答用紙を眺めた。赤鉛筆の100の文字。その下の描きなぐったようなマル印の群れ。 「この調子で頑張れよ」 中田の声が、空々しく響く。成績の悪い生徒をカス扱いする奴に言われても、嬉しくもない。 数少ない女生徒の分の答案を配り終わると、中田は黒板に向かって、答えの説明を始めた。 俺は聞く必要もないので、机の中からデザインノートを出し、サマードレスのデザインを始めた。 他人に言うと変態扱いされるので、クラスの奴等にも話していないが、俺、渡辺祐一郎には、『婦人服のデザインと製作』という、男にしては少し変わった趣味がある。 こんな趣味を持つに至った遠因は、幼い頃の体質にあったと思う。 親父が医者だったというのに、俺はとんでもない虚弱児だった。気管が弱く、喘息の気があって、埃っぽい晴れた日に外出すると咳が止まらなかった。雨の日にはもちろん、外へは出られない。おかげで俺には、近所の子供と遊んだ記憶が無い。 そんな俺の遊び相手をしてくれたのが、専業主婦の母さんと、九歳年上の姉貴だった。 ところで、問題その一。女二人で好き勝手に男の赤ん坊を育てると、どんな風になるだろうか? 答。何の抵抗もなく姉のスカートをはき、リボンを結べと姉を引っ張り、お化粧したいと母親に駄々をこねる、そんな六歳児ができあがるのだ。 仕事の関係で親父が留守勝ちだったのが悪かったのか、身体が弱いため幼稚園に通わなかったせいか、俺はそんな自分に何の疑問も持たずに小学校に入学した。 いつもと違う、小学校の半ズボンの制服を着せられ、胸にブルーのリボンを付けられた時、どうしてスカートじゃないのか、どうして俺の好きなピンクのリボンじゃないのかと、不思議に思ったのを覚えている。
それからは、スカートもはかなくなり、フリルのブラウスも、花柄のワンピースも着なくなった。身体も年々強くなり、クラスの友達と休み時間にはグラウンドを駆けずり回る、ごく普通の男子児童になった。 ……が、『三つ児のたましい百までも』という言葉の示す通り、幼い頃の経験は人間の本質に影響する。 十七歳になった今でも、子供の頃からの価値観は変わらず、俺は、街を歩きながらブティックのショウ・ウインドウばかりを覗き、水着姿の女性を見ると、そのプロポーションよりも水着のデザインが気になってしまう、そんな人間に成長してしまったのだ。 そしていつの頃からか(正確には、小学六年生の冬からだが)、かわいいブラウスや、エレガントなドレスを着ない代わりに、それらをデザインし、作ることでフラストレーションを昇華するようになったのだった。 校内に、このことを知っている人間は一人もいない。 知っているのは家族と、近くの桜花女子高校に通うGFだけだった。 「なあ、渡辺」 突然、前の席の増島が振り向いた。俺は反射的にノートを隠した。 そんな仕草を見て、増島は鼻の付け根にしわを寄せた。 「おまえ、嫌な奴だな。隠すことないだろう? どうせ満点なのは判ってるんだ。見せろよ、『模範解答』」 俺の返事も待たずに、ノートの下の解答用紙を引きずりだす。 「ああ、なんだ。答案のことか」 増島は、思わずつぶやいた俺の言葉にも、気がついていないようだった。自分の答案と俺のとをじっと見比べると、『やっぱり、そうだ』とつぶやいて、人の答案を持ったまま、笑顔で教壇の中田の元へと向かう。 「サンキュー、おかげで四点プラスだ」 帰ってきた増島から解答用紙を受け取りながら、俺は改めて周りを見回した。 皆、自分の解答用紙の採点にミスは無いかと、目を皿のようにしていた。それが済んだ人間は、他の奴がどれほどの点数なのか、盛んに探りをいれている。 「おまえ、どうだった?」 「だめだ。さいてーだよ」 「俺もだ」 そんな会話をしている奴に限って、成績上位者のリストに名前が載っているのだ。 「質問がなければ、授業を始める」 中田の一言で、教室内の騒がしさが別の物に変わった。問題集と、ノートをめくる音。その他の音は一切なくなる。 俺は、ほんの少しばかりそんなクラスメイト達に同情しながら、微積分のノートをめくった。 喫茶店『お茶しま専科』は、いつもの通りガラガラだった。 店の立地条件が悪いからか、それとも店構えが地味すぎるためか、メニューの豊富さ、味の良さにもかかわらず、いつ来ても一組以上の客がいたことがない。 もっとも、俺と久美はそこが気にいっているのだ。 「あ、祐一郎」 俺がドアを押し開けると、カウンターでママと話していた久美が振り向いた。久美はいつものとおり、女子高のボレロタイプの制服を着ていた。 俺と久美は毎週金曜日に、この店で待ち合わせをしているのだ。 ママにブレンドを注文して、俺達はボックス席に移った。 「そろそろ、中間テストの結果が出たんじゃない? どうだったの?」 「まあまあだったよ。久美はどうなんだ?」 「期末いかんでは赤点一つ。漫画家になるのに、数学の成績は要らないから、いいんだけどね」 久美は漫画家志望だ。投稿マニアで、作品を描いてはあちこちの雑誌の新人賞に応募している。 「また、新作のコンテをきったのよ。十六ページのコメディ。ね、読んで」 久美は、学生鞄の中からコンテ用の無地のノートを出した。 「テスト期間中に、描いていたのか?」 「どうせ自分だって、テストの問題用紙の裏に、デザイン画を描いてるくせに。早く見せてよ」 俺は久美のノートを受け取り、デザインノートを久美に渡した。二人で互いのノートに目を通す。 「あ、このサマードレス、いい。生地はどんなの使うの?」 「夏だから、洗いざらした感じの綿で。アンダーにコットンのタンクトップをあわせるんだ」 「いいなあ。材料費出すから、今度作ってよ」 「久美には、落ち着いた色が似合うな。……サイフにゆとりがあるから、これから生地を買いに行くか?」 「嬉しいけど、その前にあたしの作品の感想を言ってよ。それから出かけましょう、ねっ」 久美は笑った。 久美と初めて出会ったのは、二年前の桜花女子高校の学園祭の時だった。 姉貴が桜花の生徒だった頃、小学生だった俺は、母さんに連れられて桜花祭を見に行った。 姉貴が卒業してからも、俺は一人で桜花祭を見に行っていた。目的は、毎年恒例の家政部のファッションショーだった。 その年も桜花祭は、華やかに繰り広げられていた。講堂では様々なステージ、中庭では料理研究部の出店、教室では各部活ごとの企画。 俺は中学の同級生のところへ顔を出し、お目当てのショーを見て、ひまつぶしにゲームをやって賞品をまきあげ、そろそろ帰ろうかと校舎の中を歩いていた。 その時だ。そばの教室のドアから、久美が勢いよく飛び出してきたのは。 もろに衝突して、俺は彼女の持っていた筆洗いの中の、灰緑色の液体をかぶった。 久美は漫画研究会の一員で、さっきまで、注文のあったカラーイラストを描いていたところだった。一区切りついたので、筆洗いの水を替えようと展示即売会場を出たところで、俺にぶつかったのだ。 慌てた久美は、服についた染みを抜くためにシャツを脱がせようとして、思い切りソデを引っ張り、シャツの肩を破いてくれた。 それを繕う久美の手元があまりにも危なっかしかったので、俺は思わずシャツと針をひったくってしまったのだ。 「へえ、うまいのね」 そう言って目を丸くした久美の顔は、今もはっきりと思い出せる。 どうしても弁償したいという久美に電話番号を教えたのが、俺と久美の奇妙なつきあいの始まりだった。 「だって、服の趣味って、他人には分からないでしょう? だから、一緒に買いに行かないと、本当に弁償したことにならないんじゃないかと思うの」 そう電話で言われ、一緒に服を買いに行った。 そのファッション・ビルには様々な店があって、俺は自分のシャツそっちのけでディスプレイされた婦人服にばかり、目を向けていた。一人では、こんなに堂々とブティックを覗き込むことはできない。久しぶりにウインドウ・ショッピングができたため、俺は少しばかり興奮していたのだ。 ────そして、そんな俺に久美は言ったのだ。 「そのスカート、欲しいの?」 「うん、こんな服作ってみたい」 つい口走ってから、まずいと思った。彼女は、驚いたように俺を見返していた。 『変態だわ』『おかしいんじゃない?』『気持悪い』 そんな目を向けられることを、覚悟していた。 しかし、久美はニッコリと笑った。 「お裁縫が得意なの、納得した。手芸が好きなの?」 「いや、どちらかと言うとデザインの方が……」 「将来の夢はデザイナー?」 どうして、そう聞かれた時、素直にうなずいてしまったのか、今ではよく分からない。 「高松君の夢は、漫画家になることなのか?」 彼女はうなずいてから、俺に、まるで昔からの友人を見るような目を向けた。 「あたし達って、仲間ね」 「仲間?」 「だって、二人ともクリエーターを目指してるもの」 そう言って、久美は笑った。 結局、久美はシャツの代わりに、夏のスカート用の更紗の生地を買ってくれた。 |