ブスの美学
─マリコさんの場合─

橋宗 優里

第10話

 早朝7時の美術室には、案の定、ひとっこひとりいなかった。
『自己紹介オリエンテーリング大会』が終わったばかりで、放課後はクロッキーの描き合いをするために多くの部員でにぎわう美術室も、朝は静かだ。
 これが学園祭の準備が始まる来週以降になると、個人展示作品の下準備をする部員なんかが朝から美術室に来るようになるのだけど、一つの大きなイベントが終わった直後、次のイベントの準備開始の直前のこの時期、こんな朝っぱらから美術室に足を運ぶ部員はまずいない。
「さて、サクッとやっちゃいますか」
 私は自分の予測通りの無人の美術室に満足しながら、画材ばさみと道具一揃を入れたバッグを手に美術準備室の引き戸を開けた。
 美術室を経由しなければ入ることのできない美術準備室は、本来、美術関係の教材・資料置き場なのだけど、その一角は美術部の物置になっている。
 美術室まで道具を持ち出すのも面倒くさいから、ここで作業をしてしまおう。
 イーゼルを立て、昨日のうちにマスキングシートと紙で背景以外にインクを飛ばさないようにマスキングをしておいたボードと、試し描き用の紙を置く。
 エアブラシのヘッドとエアフィルターとコンプレッサーをホースで繋ぎ、コンプレッサーのプラグをコンセントに入れる。
 筆洗いにノズル洗浄用の水を用意してから、インクをブラシにセットする。
 試しに何度か紙の上にインクを吹き付けながらノズルの調節をして、よし、準備OK。
 私はボードの左上、シミのある辺りから少しずつ色を置いていった。
 シミの所はそれが隠れるほどに十分に濃く、でも、イラスト全体のバランスを崩さないように、何せ失敗したら取り返しがつかないから慎重に、頭の中のイメージに合わせてボカシを広げる。
 まだ足りない。もう少し……そう、こんなものかな?
 手を止めた時には、思わず長い溜め息が出た。使い慣れない道具でのやり直しのきかない一発勝負は、使い慣れた道具の倍以上も神経を使ってるようだ。
 でも、それだけの甲斐はあったなと、ほわんときれいに広がるワインレッドを見ながら思う。
 やっぱりこの感じは、他の手法では出せない味だ。
 おっと、使い終わったらすぐにノズルの洗浄をしないとね。
 ノズルの水洗いを済ませてから、私はエアブラシの片付けを始めた。

 コンプレッサーの電源を落として、繋がっているホースなんかを全部外して、元通り置いてあった棚に戻そうとしていた時だ。
「あ、やっぱり」
「ぎゃっ!」
 不意に背後から聞こえてきた声に、私は飛び上がった。
 振り向くと、換気の意図もあって開けっぱなしにしておいた美術準備室のドアの所に、安原が立っていた。
イラスト1
「おはよ〜ございます。美術室にカバンがあったし、準備室のドアも開いてたから覗いてみたんですけど、やっぱり、マリコさんだったんですね。こんなに朝早く、何をしてるんですか?」
「お、おはよ。ずいぶん、早いね、安原。どうしたの?」
 私は慌てて安原の方に向き直った。
「公開されてるクロッキーを一人でゆっくり見ようと思って、早く来たんです」
 そう言う安原から、私は持っているエアブラシが見えないように背中で隠したけど……その行為の無意味さに気付いたのは、次の瞬間だった。
「あ、これ、イラストですか?」
 安原は、目敏くイーゼルの上のボードを見つけていた。
「ちょっ、ちょっとエアブラシ使ってみたくって、いたずらでちょっと描いてみただけだからっ。たいしたモンじゃないんだよっ」
 片付け途中のエアブラシを放り出し、私は安原とイーゼルの間に割って入った。
「だからっ、えっと、その……」
 必死で安原の目からボードを隠そうとする私に、安原は困ったように笑った。
「僕、そんなにマズイものを見ちゃったんですか?」
 あ〜〜。
 確かに、私のこの慌てよう、『たいしたモンじゃない』モノに対する反応じゃなかったな。我ながら、完全に墓穴を掘ってしまっている。
「でも、マリコさんのまともな作品見るの初めてなんですよ、僕。マリコさんの過去の作品は油絵が多いって聞いてたんですけど、イラストも描かれるんですね」
 のんきな口調の安原の言葉を聞きながら、私の頭の中はいろんなコトがぐるぐる回ってた。
 なんで、こんな朝早く学校に来てるんだ、安原〜〜。あともう15分遅ければ、私は全部の作業を終えて、ノープロブレムだったのに。
 ああ、こんなことなら、放課後、誰もいなくなるまで待ってやればよかった。……でも、この時期、校舎の鍵が締められるぎりぎりまで誰かが美術室にいるもんだし、学園祭の企画・準備が始まったらなおさらそんなチャンスないし。
 それにしても、もしも、安原の口から私がエアブラシを使ったイラストを描いていたなんて部員達にバレたら、特にあの瀬戸なんかに知れたら『なにい? そんなモン描いてたのか? 批評してやるから全作品もって来い!』なんて騒ぎにもなりかねない。
 それは、まずい。絶対に!
「安原。君に一つ、お願いがあるんだけど」
 私は安原の肩に手を置いて言った。
「ここで、私がエアブラシを使ってイラストを描いてたコト、誰にも言わないでいてもらえないかな?」
「それって、使っちゃいけないモノだったんですか?」
 安原がエアブラシを指差しながら言う。
「そおいう意味じゃなくてね。美術部員は、美姫も含めて、私の得意分野は写実的な油絵だと思ってて、私がカラーインクを使ったイラストを描いてることを知らないの。で、私もこれは他の部員に知られたくない。誰にも見せずに、内緒にしておきたい。だから、黙ってて欲しいの」
 これで断わられたら、どうしよう。先輩の強権を発動して、思いっ切り高圧的に出て丸め込む? でもそれじゃあ、美術部ルールに違反するし……
「いいですよ」
 あっさりと、安原はうなずいた。
 そうだね。安原って、瀬戸なんかと違って素直な奴だから。先輩からのお願いに逆らったりするような奴じゃないか。
 ほっとした私を、「でも」という安原の言葉が硬直させた。
「でも、そのかわりと言っちゃあなんですけど、一つ、僕のお願いもきいてください」
「へ?」
「マリコさんの後ろのイラスト、もう、完成なんでしょ? マスキングを外して、ちゃんと見せてくださいよ」
 抵抗することは、できなかった。

 ゆっくりと、マスキングシートを剥がしてゆく。
 心臓がドキドキいって、自分でもただでさえ赤ら顔のほっぺたがさらに真っ赤になっていることがわかった。安原の視線が、シートを剥がす私の手元を追っているのを感じる。
 できるものなら、ここで安原を一発ぶん殴って記憶喪失にさせて、ボードを持って遁走してしまいたい、そんな気持ちにさえなる。
 ボードを覆っていた全てを取り去ると、安原は「ホウ……」とはっきり聞こえるほどに大きなため息をついた。
「マリコさんって、羊の皮をかぶった狼だったんですね」
「え?」
「僕が今まで見てたマリコさんのクロッキーが、『偽物』だったってこと、今、初めて知りました。すごく、いいですよ、この作品」
 見返した私に、安原はにっこりと笑った。まるで邪気のない、あったかくて素直な笑み。
 まっすぐに私に向けられたその笑みと、率直な賞賛の言葉にむせ返るような気分になって、私は安原から目をそらした。
 自分の中から込み上げる嬉しさに戸惑いながら、私は言った。
「でも、こんな絵、私が描いたとはとても思えないでしょ? 全然、似合わないもんね」
 言ってから気がつく。自分が描いたイラストを他の人の目に触れさせたくないと思っていたのは何故なのか、その本当の理由に。

 今までは、イラストを描くのは自分一人の楽しみだから、他者にその領域に踏み込んでもらいたくないのだと自分自身で理由づけていたのだけど、それは本当の理由ではない。それが理由なら、安原の褒め言葉がこんなに嬉しいわけがない。たとえ褒められたとしても、安原という他者にイラストの感想を言われること自体が苦痛であるはずだ。
 私が嫌だったのは、イラストのイメージと自分自身を比較され、その二つを何らかの形で関連付けられることだったのだ。
 私はブスで、でも私が描くイラストの人物はシャープなイメージの美男美女で、それを描く私自身とは似ても似つかない人物ばかり。その事実を「こんなブスに似合わない絵」と思われること、あるいは「こんなブスだから美人に対する憧れが強くて、こんな美人ばかり描くのだ」と納得されること、それが嫌なのだ。
 自意識過剰のブスである私にとって、「ブスに似合わないコト」をすることは許されない。「似合わない」そのことを笑われ、嘲られることに耐えられないからだ。
 同時に、「ブスに似合い過ぎるコト」をすることも許されない。ブスだからしているわけではないコトも、周囲に自分がブスであることと関連付けられてしまうことに、耐えられないからだ。あげく、ブスであることに同情されることなど、なおさら耐えられない。
 だから私は、私をブスだと思っているであろう人々の目に、私のイラスト作品達を触れさせたくはなかったのだ。

 でも、安原はあっさりと言った。
「そうですか? そういうのって、僕は良く判らないんですよね」
 改めてイーゼルのボードに目を落とす安原の横顔を、私は呆然と見つめた。
 そういえば、安原ってこういう奴だったんだっけ。
 美人の美姫のグロテスクな作品を、なんの予備知識もないのに『らしくない』作品だと思わない、安原はそういう人間だから、同じ理屈でブスの私の作品と私自身の間に多くの人が見い出す関連性など、思いつきもしないのだろう。
「でも、これ、すごくいいすよ。繊細だけど脆弱じゃなくて、大胆だけど神経が行き届いていて……」
 安原は、さらにこのイラストには分不相応なくらいの賛美の言葉を口にした。
 そりゃ、今までの私の作品の中では最高の傑作だけど、他人様にそれほど褒められるほどのもんじゃない。照れるじゃないの。
 内心じたばたしている私に向かって、安原はさらに続けた。
「僕はこのイラスト、好きですよ」
 好き。
 その言葉だけが、一瞬、頭の中に取り残されて、私はドキリとした。
 言葉の対象がイラストだってことはわかっているのに、『好き』という言葉を自分が言われたかのように反応してしまった自分の心臓に、私は一人で苦笑した。
『ブスの容姿に関する自意識過剰』は本人にはどうしようもないけど、傍で見てると滑稽な『ブスの恋愛に関する自意識過剰』には、自覚していれば陥らないで済むんだから気をつけなくちゃね。
「これを誰にも見せないって、本当に勿体ないと思いますよ」
 安原は顔を上げ、私に言った。
「でも、約束は約束だよ?」
「はい。マリコさんのお願いなんですから、誰にも言いません」
 念を押す私にそう答えた安原は、しかし、妙に嬉しそうだった。





 N高の学園祭は、7月の中旬、期末テストの直後、終業式の直前にある。
 定期試験のすぐ後にある学園祭というのは、とても珍しいだろう。近隣の高校の学園祭は、5月か11月で、この時期に学園祭をする学校というのは、他にはない。
 仮にも進学校でありながらこんな時期に学園祭があるというのには、当然ながら理由がある。元々、N高の学園祭というのは、創立記念のお祭り騒ぎが発展したもので、N高の元となった旧制中学のそのまた前身である幕末の塾が開かれたのが、この時期であるというわけだ。
 中間テスト・実力テスト・期末テストと、1ヵ月ごとに続く試験の勉強と学園祭の準備に追われる生徒はキツイにはキツイんだけど、皆、これが当り前だと思ってるし、各文化部の準備や練習の計画も代々の慣習通り、このスケジュールに沿って早くから立てられるので問題にはならないのだ。
 我が美術部も、生徒会から依頼されて作る校門のアーチを始め、やらなくてはならないコトが沢山あるため、新入部員を正式に迎え入れる『自己紹介オリエンテーリング大会』の翌週の部会から学園祭の準備を始めることになっている。

 学園祭の準備の一番最初の部会は、主に一年生に対する学園祭までの準備の流れの説明に費やされる。
「以上が、学園祭までのダンドリになります。何か質問はありませんか?」
 私の問いかけに、一年生の柴田の手が上がる。
「個人作品の大きさの規定はありますか?」
「ありません。でも、一般教室が展示場所になりますし、他の部員も当然作品を出しますから、それを踏まえて個人で判断してください」
「でっかい作品を作りたいなら、『共同制作コンペ』に企画を出せばいいんだよ。アイデアが採用されたら、広いスペースを使えるわ、部員を使って作品制作ができるわ、材料費は部費から出るわで、美味しいぞ」
 横から瀬戸が口を出す。
「この『校門アーチコンペ』『屋外共同制作作品コンペ』『屋内共同制作作品コンペ』は、一年生も参加できるんですか?」
 コンペの規定を書いて配布したコピーを手に、やはり一年生のゆかりが質問をする。
「もちろんできます」
 私はうなずいた。
「瀬戸なんか、入部したばかりの一年生の時に、三部門全部に企画出したもんな。採用されたの、屋外だけだったけど」
「うるせ〜〜、俺は部屋の中でチマチマやんのも、サイズや重量が決まってんのも苦手なんだよ」
 橋本のちゃちゃいれに、瀬戸が舌を出す。
「『共同制作コンペ』は、来週の部会日に行います。参加希望者は、アイデアを練っておいてください。個人作品に関しては特に制作期間を設けませんので、各自で時間を捻出して制作してください。例年ですと、共同制作の追い込みに入るのが実力テスト後ですので、出品希望者はそれまでに作品を完成させておいたほうがいいでしょう。他に質問は?」
 質問がないことを確認してから、私は部会を終わらせた。

『自己紹介オリエンテーリング大会』から丸一週間たったが、まだまだ皆のクロッキーは終わっていないらしい。部会が終わるとすぐさま、上級生がスケッチブックを引っぱり出しながら一年生をつかまえ始める。あっというまに、美術室のあちらこちらで一年生を中心にスケッチブックを手にした部員の輪ができた。
「美姫は、クロッキーあと何人残ってるの?」
 部会の記録を取っていたノートを開いたままの美姫のところに行って、私は話しかけた。
「え? 何?」
 美姫は、はっと顔を上げて聞き返した。
「『クロッキー、あと何人残ってるの?』って、聞いたの」
「あと、10人、かな?」
「ほとんど残ってるじゃない。あっちに加わらなくていいの?」
「ん……」
 生返事をしながら、美姫はノートを閉じた。
「ずいぶん、元気がないね?」
「元気がないってわけじゃないのよ。ちょっと、緊張してるだけ」
 言われてみると、確かに今日の美姫は少し青ざめた顔色をしていた。
「……トイレ行きたいんだったら、さっさと行っといで。我慢すると便秘になるよ」
 ぷっ。
 美姫が吹き出す。
「やだ、そーいうんじゃないわよ!」
 ひとしきりケタケタと笑った後、美姫は目尻に浮かんだ涙を拭った。
「サンキュ、マリコ。肩の力が抜けたわ」
 そういう美姫には、いつもの雰囲気が戻ってきていた。
「そんなに緊張して、どうしたの?」
 私の問いに美姫は、一通の封筒を差し出した。
「アートブロス?」
 封筒に印刷された会社名を、私は読み上げた。
「ケン・ヤマモトとか天沢タカシとかと専属契約してる画廊なの。お兄ちゃんがケン・ヤマモトが好きで、個展に行って以来作品展の招待状が来るんだけど、今回S市であるのは天沢タカシの個展で、趣味じゃないからって、アタシに招待状をくれたの」
 天沢タカシといったら、ファンタジー系小説の装丁で人気が出た、個性的で繊細なラインが魅力のイラストレーターだ。
「開催は明日まで、入場料500円? この招待状を持って行くと、4名様まで入場料がタダになるわけね」
 封筒の中のチラシには、優美な弧を描く剣を握った女戦士のイラストが配されていた。
「でも、天沢タカシって、美姫の趣味じゃなかったでしょう?」
「まあ、嫌いではないけど特別好きってわけでもないわね」
 そう言って、美姫は私の耳元に顔を寄せた。
「それでも、人からもらったタダ券なんだから、良い口実かなって思うんだけど」
 ぽん。
 回りの部員に聞こえないように小声で言った美姫の言葉に、私は手を叩いた。
「なるほど、これを口実に、安原を誘おうってわけだ」
 私も小声で囁き返す。
「でも、安原だけを誘うのって、なんかミエミエでしょう? どうしたらわざとらしくないかって悩んでたの」
 なんとなく、美姫の気持ちがわかるなあ。
 きっと、好きな人と一緒にいたい気持ちと、でも自分が相手を好きだってことを気付かれたくない気持ちが、同じくらいに大きくて、どうしたらいいかわからないんだ。
「よおし、マリコさんにまかせなさい。上手くやってやるから」
 私は胸を叩いて笑ってやった。

第11話へつづく


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