越佐の劇場 1999

伝言板・越佐の劇場ロビー(直通)では、
みなさまの情報をお待ちしております。

そんな風にして僕たちは
多くの確からしいものが
しばしばそうなるのと同じように
深い場所へ落ちて行った
踊るように

 project Selves公演
 作・演出:戸中井三太

 劇団カタコンベの戸中井三太、ジャンボ・佐々木、谷藤幹枝の三人による新プロジェクトの初舞台。

 登場人物は二人、男と女。二人の関係は、友人でも、恋人でも、知り合いでも、知人でもない。
 二人のセリフの中から、次第にそれぞれの事情と関係が浮き彫りにされてゆく。
 女には兄が一人。その兄は既に自殺しているのだが、どうやら男は兄の友人であり、妹である女とも交流があったらしい。
 女は、兄の自殺をきっかけに精神に変調をきたし、酒と薬(精神安定剤)に頼る日々を過ごしている。女の話し相手になっている男は、そんな彼女に対して妙に淡々と接している。「彼女に酒や薬に頼らない精神的健康を取り戻してもらいたい」とかいう積極性がまるでないのだ。
 やがて、女と兄が兄妹でありながら恋人同士でもあったということが明らかになる。そして、男がゲイであり、死んだ兄を愛していたことも。
 やがて、錯乱した女は、自分が兄をビルから突き落としたのだと言い出す。兄が死んだ時に他県にいた彼女に、兄を殺すことなどできなかったのだと知っている男は、しかし、そのことを彼女に告げなかった。その結果は……?

 愛する人間を失った二人が、互いに互いを嫉妬しているがために、残された者同士傷を舐め合うこともできず、むしろ二人で出血を止めるかさぶたを剥ぎ合いながら緩慢な失血死に向かって歩いてゆくような、そんな物語。
 最後のシーン、笑っているような慟哭しているような悲痛な声の演技には、圧倒された。


「序盤、ギャグで客を引っ張りながら伏線をちりばめ、終盤の人間ドラマを見せる」というスタイルを戸中井三太自ら拒否した作品。
 淡々と進んで行く二人の会話は、時折表出する女の狂気もあいまってそれなりの緊張感はあるのだけれど、どうも引っ張りきれない感じ。決して、セリフの内容がつまらないわけではないし、それを表現する演技が悪いわけでもないのだけれど、正直に言ってしまうと、睡魔と戦うのが辛かった。(いや、元々の睡眠不足もあったんだけどね)
 ちなみに、この睡魔、男が兄を愛していたことを口にした瞬間に、いきなりぶっとんだ。寝ぼけてる人間さえもクライマックスに引きずり込むあたりは、さすが。


                             シナリオ 4
                             演技   4
                             舞台演出 4
                             総合   4

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

AIR

 劇団サン・フェイス 新人公演
 作:佐藤広樹
 演出:香山順

 観たのはダブルキャストのBキャストの方。

 新米新聞記者の弥生は、デスクの命令で新興宗教団体の教祖のインタビューをすることになり、カメラマンと一緒に教団施設へやってきた。その教団の周囲には、解散したはずの暴力団の隠れ蓑であるとか、新種の麻薬「AIR」を製造・販売しているとか、きな臭い噂が漂っている。
 教祖を待つ間、教団幹部を取材していたのだが、その折り、別の信者から幹部の目を盗んで一枚のメモが渡される。「たすけて」と一言だけ書かれたメモ。
 教団は噂通り、信者を麻薬漬けにしていたのだ。
 中毒患者とのやり取りをテープに納め、隠しカメラで撮影し、これで警察に通報できるとその場から逃げようとする弥生とカメラマンの前に、オートマチック拳銃とテディベアを手にした一人の少女が現れる。
 とても正気とは思えない彼女は、教団の教祖、その人であった。


 素直に観れば、十分に楽しめはするのだが、少し物足りない。
 新人公演ということで習作としての色が強いせいか、良くまとまっているけれどあまりにも型にはまりすぎている感じがした。脚本の仕立ても、登場人物の脚本上のキャラクターも、キャスティングも、演じ方も、劇としては極めてオーソドックスで、意外性・面白味がない。
 物語が追いやすい脚本なのだから、それ以外の所はもっと思い切っても良かったように思う。

 役者で光っていたのはカメラマン役。役の性格をちゃんと役者が理解して、自分で台詞以外の役を作り、必要十分な仕草でそれを表現している。舞台の上で、きちんと「ちょっといい加減な所もあるカメラマン」が生きていた。
 対して、主人公の弥生。発声もできているし、舌もまわっている、台詞を言わない時に演技を忘れているわけでもない、けれど、物足りなく、どうしても「立ちん坊」という印象がある。役の掘り下げが足りないのだろうか。
 出番の殆どがカメラマンとかぶり、しかも、カメラマン役の良い所=弥生役の足りない所だったので、弥生が悪目立ちしてしまったようだ。肉体的な訓練は足りているように見えるので、役を作るための視点・観察力を鍛えてそれを演技に取り入れれば、ぐっと良くなると思う。
 少女役は、静かな狂気の演技はよかったのだけれど、高笑いや叫びなど、最初の一声できっちりインパクトを与えなければならないシーンで、上手くそれを実現できなかった所があったのが惜しい。(いや、これが難しいことなのは承知してるんだけどね)

 個人的な興味だが「弥生と少女、暴力団員信者・六郷と弥生達に助けを求める信者・三矢のキャスティングを入れ替えたら、どんな風になったろうか?」と思ったりする。
 役者の外見や個性から割り当てたキャスティングというのは、暗に要求されるイメージがわかりやすいだけにステロタイプな演技になりがちなのではないだろうか?
 観終わった後で、「全体の印象が前作(ナイフ・アンド・ジュリエット)と同じだあ」と思ってしまったのだが、そのことも含めて、今から劇団や役者の決まった型を持つのは勿体ないように思う。

 次回は、いい意味で裏切られたいなあとちょっと希望。


                             シナリオ 3
                             演技   4
                             舞台演出 5
                             総合  3.5

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

ぼくらは生まれ変わった木の葉のように

 劇団第二黎明期公演
 作:清水邦夫
 演出:シダジュン

 客入れの時点から、舞台には3人のキャラクターがいる。
 編み物をしているエプロン姿の女性、ハードカバーの本を読んでいるネグリジェ姿の女性、客席に背を向けている男性。舞台装置から、どうやら普通の家庭の居間であるらしいと分かる。
「こういうのは、まあ、よくある演出だな」と思いながら、開演を待っていると、やがて、暗転。暗闇に大音響で響きわたる自動車事故の効果音。ライトが点くと、今まで単なる壁だったセットが、壁を突き破り自動車の鼻面が家の中に突っ込んでいるセットに変わっている。
「舞台の上の物語に、日常的継続性を感じさせるための演出」として、客入れから舞台に役者を置いていたのかと思っていたのだけれど、これは少し意味が違う。客入れの時点からすでに「開演」していたということなのだと納得。面白いじゃん。

 普通の居間に、突然顔を飛び出させた一台の自動車。
 自動車に乗っていたのは、男と女。どうやら、盗難車を乗り回していたちんぴらカップルが、運転をあやまって家に突っ込んだらしい。
 ところが、この家に住む家族(夫、妻、妹)は、この異常事態に際して妙に落ち着いていて、平然と男女に酒を勧めたりする。そのうえ、突然にシェイクスピアの戯曲の一節を朗々と口にしする。
 明らかに一般的でないこの家族の異常さを感じながら、男女はこの家から逃げ出すタイミングを逸してしまう。
 異常な家族と、普通の犯罪者の奇妙な同居生活が始まる。


 演技・演出は良かった。
 女優3人は新人とのことだが、そうは思えない達者ぶり。
 妹役の、「妹としての台詞」「朗読」「台詞をものにしていない劇中劇の台詞(棒読み)」の声の演技分けも良かった。
 ちんぴら女役の、ヤケになってるような投げやりな感じの演技も雰囲気があった。
 ちんぴら男役もよくて、ド近眼のため事故の現状が理解できず他人様の居間の床をメガネを探してはいずり回るオープニングシーンでは、きっちり観客をつかんでくれた。
 小物使いもいい。編み物をしている妻が、感情的にわめきながらせっかく編んだ毛糸をほどき始めるシーンなど、上手いなあと思った。

 物語は、私にとっては難解だった。
 難解な物語には2パターンある。「判断材料自体は過不足無く含まれているが、その提示のしかた(脚本の仕立て・演技・演出)が込み入っているので、判りにくい」というのと、「十分に物語を理解するのに必要な判断材料自体が、そもそも与えられない」というもの。この作品は、後者にあたると思う。
 こういう物語を、頭で理解しようとしてはいけないんだとわかっちゃいるけれど、「ええ〜〜い、結局どういうことだったんだ〜〜?!」とつい、じたばたしてしまうのは私の悪い癖。(笑)


                             シナリオ2.5
                             演技   5
                             舞台演出 4
                             総合   3

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

八月のシャハラザード

 劇団パラグラフ 第11回公演 万代演劇祭参加作品
 作:高橋いさを
 演出:長麻佐美

 天宮亮太は、貧乏劇団の貧乏役者。八月の海で溺れて死んだ。
 幽霊になった亮太は、案内人・夕凪に連れられあの世に向かう船・シャハラザード号に乗せられるところだったのだが、この世に残した恋人・ひとみのことが気になってしまい死にきれず、海に飛び込み逃亡してしまう。
 やっとの想いでたどり着いた劇団の練習場で、劇団員やひとみを見ることができたはいいが、なにせ自分は幽霊、団員やひとみには姿も見えず声も聞こえない。じたばたしているうちに夕凪にみつかり、さらに逃走。
 そして逃げた先で、自分の姿が見え、触れることができる男・川本と出会う。再び亮太を捕まえに来た夕凪は、川本はもうすぐ死ぬ人間だから、亮太が見えるのだと言う。
 川本は強盗犯。もう一人の男・梶谷と一緒に大金を強奪したは良かったが、恋人にそそのかされた梶谷の裏切りにあい、金は独り占めされるわ、梶谷との待ち合わせ場所に現れた警察との銃撃戦によって弾傷を受けるわの散々な目にあい、金を取り返すために梶谷を追っている。
 梶谷とマキのアパートを襲撃したものの返り討ちにされ、海に投げ込まれた川本の身体を、亮太は海岸に引き上げる。彼さえいれば、彼を仲立ちにひとみにさよならを言うことができるからだ。
 亮太の必死の心臓マッサージにもかかわらず、川本は死んでしまう。
 落胆する亮太の姿に、夕凪は一つの決心をする。
 幽霊の亮太と川本の死体の腕を、夕凪がつけていた長いマフラーで結ぶ。二人がこのマフラーで繋がれている間、川本の肉体は生き返ることができるのだ。タイムリミットは、明日の朝。それまでに、川本を介してひとみにさよならを言ってくればいい。
 夕凪の心遣いに喜ぶ亮太だが、復活した川本は梶谷に独り占めされた金を亮太に提供する代わりに、梶谷とマキへの復讐に協力しないかと持ちかける。
 苦労させっぱなしだった恋人に金を残してやれるぞとの川本のささやきに、ふらふらと協力を約束してしまった亮太。
 劇団員を巻き込んで、川本の現金奪取&復讐計画が始まる。


 笑わせどころ、泣かせどころのツボを押さえた感じが、心地よい脚本だった。
 全体の構成から考えると、時間的分量的配分がクライマックスの準備としての仕立ての方に多く割り当てられていて、仕立てが整うまでがかったるいわりにクライマックスがあっという間という印象があるが、これは脚本の方の問題に見えるからあえて不問。
 演技も相変わらずレベルが高くて、安心して観ていられた。既製脚本オンリーの劇団だそうだが、脚本待ちしなくて良い分演技が練り込めるのだろうか。これはこれでいいよね。

 しかし、気になったところがいくつか。
 場の変わり目に夕凪が亮太の評価をメモするシーンがあるのだが、いかにも「台詞を言いながらさらさらと書いたふりをしている」という演技だったのが気になった。台詞のテンポを優先するために演技のリアリティを犠牲にするという選択は時として有効であるが、今回は裏目に出たように思う。実際に言葉を口にしながら文字を書くようにしながら、「きょう〜〜ちょう〜〜せい〜〜、ナシ!」みたいに言い方に緩急をつけてテンポを作った方が「らしい」ように思うのだが。
 梶谷に裏切りをそそのかし、川本を殺す悪女役のマキも気になった。演技自体はよいのだけれど、キャラクターがはっきりしていないように見えたのだ。
 途中、梶谷に川本を殺すようにそそのかすシーンがあるのだが、そのシーンの演技が、徹底した悪女で梶谷を利用するために「あんたと幸せになりたい」と演技しているのか、悪女で梶谷を利用しているが「幸せになりたい」というのは自分だけについては本音なのか、悪女ではあるのだけれど悪女なりに本当に梶谷とふたりの幸せを願っているのか、はっきりしないのだ。どうもそのシーンだけが、それ以外の悪女ぶりから浮いていたように感じる。
 さらに気になったのは、川本の演じ方。
 川本の登場は、自分をハメた梶谷を見つけて「よくも裏切ったな、金はどこだ」と詰め寄るシーンからなのだが、悪く見せよう、迫力を出そうとしているのが空回りしている感じ。型にはまりすぎているので、逆に迫力の感じられない薄っぺらな印象になってしまっている。
 マキについては悪女ぶりの演技が、川本については中盤の亮太に「良いこと無かったって言うけど、良いことあったんじゃん」と言われたときの表情や終盤の演技が、それぞれに魅力的だっただけに少しもったいない感じがする。

 演技以外では、夏のはずなのに今ひとつ夏を感じなかったというのも、ちと気になったりした。
 生きている人間の周囲に真夏らしさが感じられれば、冬らしいコスチュームで長いマフラーをした夕凪のこの世の者ではない感じが際立って面白かったんではないかなあと思う。
 蝉の声とか、照りつける太陽とか、そういう夏が欲しかった。

 クライマックス、笑いを交えながらそれでもしっかり泣かせてくれる脚本&演技はとても良かった。


 最後に疑問を一つ。
 亮太が川本の背後からひとみを抱きしめる演出は、脚本にあるんでしょうか、オリジナルなんでしょうか? すげくツボにはまったんすが。(笑)


                             シナリオ 4
                             演技  4.5
                             舞台演出 4
                             総合  4.5

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

おまけ・はひひんの個人的演劇観

悪役の描き方


 肉体派(知性派ではなく、直接暴力を振るうタイプの)悪役のイメージって、結構、固定してるんでしょうか? 「良い体格。浅黒い肌。濃い眉毛。低い声。ドスを利かせたしゃべり方。始終発散している暴力的雰囲気」そんなのが、劇における肉体派悪役の象徴的記号になっているように思います。
 んで、演じる方は、その記号の方をなぞることに気を取られているように、見えるんですよね。
 まあ、演技ってのは観察力だけど、身近に観察の対象・実際に暴力をばんばん振るうような見本がいない(誰でもお近づきにはなりたくないもんね)状況では、よく観る既製のメディア(特にTV)のイメージを参考にしちゃうのかもしれないけれど、こういうのって気をつけないと簡単に形骸化した演技になっちゃうんじゃないでしょうか?
 本当に悪い人って、普段は普通の人のような顔してて、突然に豹変したりしません? 「俺は悪だぜ、悪だぜ!」って雰囲気をまき散らしている人って、実はいきがってるだけのちんぴらだったり。マジでやばい人って、暴力的雰囲気を押し殺して隠そうとしてて、それでも隠しきれずに滲んできたりしない??
 まあ、ステロタイプを逆手に取るというのもアリだし、裏返しもステロタイプになってたり(一見気弱なサラリーマンの殺し屋とか)もするんだけれどね。

 もっと、味のある悪役、観てみたいなあと思ってみたりします。



越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

パレード旅団

 冬季限定演劇国 第4回公演 万代演劇祭参加作品
 作:鴻上 尚史
 演出:田中智子

 冬季限定演劇国という劇団は、現役高校生が学校単位の高校演劇を離れて集まり、毎年メンバーを変えながら文字通り『冬季限定』で活動するという、一つの名前を継承しながら中身は毎年違う、劇団としてはかなり実験的な存在だったりする。
 なんせ、学校の枠にはまりきらない演劇への興味を持つ高校生が集まっているんだから、技術的には拙いないながらもそれに優る情熱が伝わってきて、色んな意味で楽しい時間でした。


 脚本の物語は、かなりややこしい。

A)
 一軒の家に集まった中学生男女7人。
 彼等は全員いじめられっ子。7人の一人、家主・坂口君のパソコン通信での呼びかけに答えて集まった。坂口君は「いじめられる痛みを知っている者同士、一緒に遊んだり話をしたりできれば、きっと楽しいだろう」と思って、全国のいじめられっ子に集合を呼びかけたのだ。
 みんなでそれぞれがやりたかったことをして遊ぼうということになった時、宮内君が言う。「復讐がしたい」
 交換殺人なら、動機がある人にアリバイをつくることができる。だから、いじめられっ子同士、相手をいじめているいじめっ子達のリーダーを殺し合おうというのだ。
 駄目だというみんなの中、一人、桃山君だけが賛同する。
 そんなとき、坂口君の家庭教師の教職履修中の大学生二人が現れて、生徒・教師両面から見たいじめに対する対処法の話をしはじめるのだが、そんな二人を宮内君は自家製の毒物を飲ませて殺してしまう。「ほら、こんなに簡単に人を殺すことはできるんだ。いじめっ子どもに復讐をしよう」
 警察に通報しようとする松本さんを、桃山君が制止する。「警察に連絡したら、全員で殺したって証言するよ」
 二人の死体を前に、7人がこれからどうするか頭を抱え込んでいた時、この家にいじめられっ子が集まっていることを知ったいじめっ子達が攻めてきた。

B)
 一軒の家に住む家族7人(6人+1匹)。
 父、母、母とは折り合いの良くない父方の祖母、ボケの進んだ祖父、うるさい親をうっとおしがる浪人生の姉、素直なふりしてやるこたやってる高校生の妹、犬のポチ。
 客の前では仲のいい家族のふりをしてみせるものの、内実は父姉の対立のために崩壊寸前だ。
 観測史上最大級の台風の中、いよいよもって顕在化した家族崩壊に際して、父は突然に宣言する。「お父さんは、お父さんをやめようと思う」家族の中で父という位置にいる者が果たさなければならないことになっている役目、既製の家族の概念に合わせて崩壊しそうな家族をなんとかまとめなければならないその役目を、放棄すると言うのだ。
 しかし、その前に、一度家族の役割を交換してみようと、父は言う。
 氾濫した河の濁流に流されて行く家の中、本物の家族が役割を交換した家族ゲームが始まる。

 このAとBの二つの物語が同じ役者によって、序盤は暗転を挟んで、終盤は唐突に明確な区切り無く、交互に演じられるのだ。
 クライマックス、Aの物語のいじめられっ子達7人が、「なんだか家族のようだね」という言葉を皮切りに、「坂口君がお父さん」といったふうに、Bの物語の配役通りの家族役割を確認し、二つの物語は奇妙な融合を果たす。


 脚本を切り離して演技・演出・照明・音響を見ると、技術的面では「アラ」も多い。
 オープニング、台風の強風と雨の音の中、黒い傘をさし黒いコートを着て役者達が舞台を横切るシーンから始まるのだが、この歩き方が中途半端。「台風の中を実際に歩いている」にしては音響の風の音のイメージに合った演技ができていないし、無機的・象徴的な意味を持たせたいのなら歩き方、歩く速さ、傘のさし方などをもっと画一的にした方が良かったと思う。
 役者全般では、発声も滑舌もまあまあよく基礎的な所は水準に達していた。
 個々の役者の演技に関しては、現役高校生の有利と不利がはっきり出たように思う。いじめられっ子や姉や妹、大学生など、世代の近い役はかなりリアリティがあった反面、祖父、祖母にリアリティがない。自分は神だと思いこむ祖父のエキセントリックな役柄、男の子が祖母を演じる不利を差し引いても、年寄りの演じ方がどこか借り物のように感じられた。もしかして、祖父母と同居した経験がないのかな?
 役者全てが二役を演じ、しかも暗転などの区切り無く瞬時に別のキャラクターを認識させなければならない難しい脚本なのだが、それぞれの二役の演じ分けはなかなかのもの。強いて言えば、母=大森さん役が、声が個性的だったせいかそのイメージに引きずられて演じ分けが甘く感じられてしまった。個性的な声は諸刃の刃かもと思ったりして。
 いじめられっ子や大学生の演技など、時折はっとさせられるようなものがあって、これが単なる世代の近さ・心情の理解しやすさだけに支えられた役とのシンクロでなかったら、先が楽しみだと思える役者も多かった。
 照明、音響、演技に、間を外したもたつきがあったりしてハラハラさせられた。(劇団の事情を考えればこういう詰めの足り無さをつつくのもはばかられるような、けど、そういうトコを甘やかすのもどうかと悩んだりするけど、もう書いちまったからいいことにしよう。(爆))
 つらつら「アラ」をあげつらったが、そういう「アラ」があっても(まあ、若さを楽しむという邪道な方向ではありましたが)かなり楽しませてもらいました。


 しかし、脚本込みで考えると、どうにも不満の残る舞台だったりする。
 一つは、脚本自体への個人的不満。
 Aの物語はいじめを題材にしているのだが、その題材の扱い方がどこかぞんざいなのだ。
 終盤、いじめられっ子同士が「家族のようだ」と言いながら、嫌がっている宮内君に犬(ポチ)の役を押しつけるのは、「小さなバスに乗って全員で全国を回り、いじめられっ子を集めて、いじめられっ子だけでいじめのない学校を作る」という彼等の夢と相反する。
 また、Aの物語の中で家庭教師二人が殺されるのだが、いじめられっ子でありいじめられる痛みを知っているはずの彼等が、誰一人として何の罪もないのに殺されてしまった彼等に対する悲しみも痛みも口にせず、ただ、状況に悩むだけであるのも気に入らない。いじめによって自殺した子供達に黙祷を捧げる彼等が、だ。
 Bの物語においては、最後には土壇場での家族の再生という一つの答えが用意されていたのだが、Aの物語には表面は体裁が良いが実は矛盾した答えがあたえられただけのように感じる。

 もう一つは、この矛盾のある物語の演じ方への個人的不満。
 このようなダークな要素と矛盾を持った物語を変な解釈を挟まずそのまま演じることによって、観客に対する問題提示を試みるというのもアリではあるのだけれど、舞台からはそういうメッセージは感じられなかった。
 また、この脚本の矛盾を矛盾とせずに消化する解釈もある。「所詮、人間が集まればいじめが生まれるのは避けられず、いじめられっ子達は綺麗な理想を掲げはしたが、結局彼等もいじめる側と同じ芽を持っているのだ」という、大変にシニカルな解釈だ。
 いずれにせよ、矛盾を認識するほど脚本を深く読み込まずに演じるというのもそれはそれで不満だし、しっかり読み込んだ上で「近頃の若い者」がそういう矛盾やシニカルな解釈をアンチテーゼとしての意味を含まず演じることに抵抗がないってのは、不満を通り越して怖かったりするのだが、そう感じるのは私だけ??


                             シナリオ 3
                             演技   3
                             舞台演出 2
                             総合   3

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

月下奇譚倶楽部

 劇団Moon light 第三回公演
 作・演出:つきあかり

 とある劇団の練習中に現われた、ダサイ女の子。彼女はこの劇団のファンで、入団を希望しているのだと言う。
 演劇経験もなく歌えず踊れず物まねもできない彼女なのだが、何とか劇団への入団を果たし、いきなり次回公演の主役をまかせられる。舞い上がる彼女は、しかし、重要なことに気付いていなかった。
 彼女がファンだった劇団は、「劇団月下美人」。そして、「劇団月下美人」には、マニアックで客受けしない前衛的な劇を上演する、アングラ劇団「月下奇譚倶楽部」というもう一つの顔があったのだ。
 そう、彼女主演の公演は、「月下奇譚倶楽部」の方の公演なのだ。
 途中で彼女の誤解に気付いたものの、座長や団員達はなかなかそのことを言い出せないまま公演の日を迎えてしまう。
 公演の最後の挨拶を聞いて、自分の間違いに気付いた彼女。彼女はいったいどうするのか?


 素直な話なんで、こちらも素直に楽しませていただきました。
 それぞれのキャラクターがきちんと立ってたし、それぞれに良い味出してました。
 しかし、台詞が伝わらない所が散見されたのが惜しい。特に、舞台上のひな壇から台詞を言うシーンでは、観客よりも高い場所になるため、ことに声が通らなかった。
 個人的に、妙に気になったことが一つ。
 クライマックスの、劇団違いに気付いて走り去った彼女が、翌日再び劇団の練習場に現われてからのシーン。結局、彼女は前向きに「月下奇譚倶楽部」の一員になってめでたしめでたしという話なのだが、この「めでたしめでたし」に向かう転機であるクライマックスが、妙に浮いていたような気がするのだ。
 それまでとその後(彼女の芸名の話等)のシーンが持っていた雰囲気が、そこだけ無いように感じた。いや、むしろ、そこだけに違う雰囲気があったのかもしれない。
 散々考えたのだけれど、この違和感を上手く説明することもそれが生まれた論理的理由付けもできなかった。一緒に観ていたダンナに聞いてみても、そういう感じは持たなかったと言うし。でも、まあ、「そう感じた人もいる」ってことで。


                             シナリオ 4
                             演技   4
                             舞台演出 3
                             総合   4

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

悲しきGARGLE

 劇団第二黎明期プロデュース公演
 作・演出:シダジュン

 高速道路のパーキングエリアで、女トラックドライバーが拾った女ヒッチハイカー。
 夜の高速道路を走る4t車の中で、女二人の会話から浮き上がる二人それぞれの事情。そして生まれる奇妙な友情。


 女優二人の演技は、文句のつけようのない素晴らしさ。
 例えば、オープニング。女が車に乗り込み運転を始める、それだけのマイムで、車が大型トラックであること、女がそれを運転し慣れている職業トラッカーであること、結構男勝りな性格であることをきっちり表現してくれている。ハンドルを握る手首の角度、動かし方、がばっと開いた足、アクセルの踏み方、表情。全てが選別され洗練された演技であり、その性格の表現としての演技が、舞台の上では一度も忘れられることがない。
 ヒッチハイカーの方も同様で、舞台においては当たり前に要求される当たり前のこれらのことを当たり前にするだけで、こうも舞台自体が観やすくなるんだよなあと、「彼女に与えるべきではないエサのいくつか」の時に思ったことを再認識した。

 女性トラッカーにもヒッチハイカーにも、序盤に表に出ているのとは別の裏性格(?)が設定されている。女性トラッカーは、男性の前では緊張のせいかころっとおとなしくなるし、ヒッチハイカーは実は「カラダは男、ココロは女」な人。
 で、要所で出てくる裏性格の演じ方も絶妙。「まるっきりの別人」ではなく、あくまで「その人の隠された性格」として表出させる加減が良かった。


 演技以外では個人的には気になったところもいくつか。
 夜の高速道路を走る雰囲気を出すために、暗めの照明の舞台に、別のライトを前側から当てて明滅させるという手法を使っていたのだけれど、私自身はピンとこなかった。多分に、手法それ自体の問題ではなく、それを使う使い方の方が気になっているのだ。端的に言えば、明滅のリズムである。
 その明かりの意味するものが対向車のライトにせよ路上灯にせよ、その明滅するタイミングにそれらを感じることができなく、違和感の方が先に立ってしまった。対向車のライトならもっとタイミングにばらつきがあり、路上灯ならもっと明滅が早いのではないだろうか?

 シナリオ上で気になったのは、女性トラッカーの心理。
 結婚を明日に控えても、まだ迷ってしまうマリッジブルーってのは、わからなくはないのだけれど、それが「彼がうがいの後に『か〜〜っ、ぺっ!』とやるのが嫌!」って、ある意味生理的な嫌悪感に基づいているってのが、どうも。
 なんというか、本当にそれに生理的嫌悪を感じているならそれだけで100年の恋も冷めるだろうし、マリッジブルーのためにそれほど気になっていないことがどうしても目についてしまうというのならここまで悩みはしないんじゃないかと、そんな風にちょっとひっかかってしまったのだ。

 女性トラッカーとヒッチハイカーが、実はトラッカーの結婚相手を通じて関係があったというオチは、どうかなあ? 関係があっても、関係が無くても、どっちもすでにありがちなパターンなので、どっちでもちょっとの不満が残っちゃいそう。


 脚本における伏線の張り方、情報の提示のしかたは細部に渡って計算されていて、観ていて心地よい。
 派手なアクションも、大がかりな演出もないけれど、いやいや、十二分に楽しませていただきました。


                             シナリオ 5
                             演技   5
                             舞台演出 4
                             総合  4.5

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

戦場のメリーさんの羊

 爆男倶楽部「ギガ・プレステージ’99」Vol.1
 作・演出:能勢利明

 場所は月。
 重力をコントロールし、大気を生成し、地下で作物を作り、地球と同様に暮らせるようになった地球から38万キロ離れたその地で、人間がしていることは「戦争」だったりする。
 月で戦っているのは、脳を通じて肉体に作用し筋肉を変化させプログラムされた身体能力・行動パターン・人格を再現するプログラムチップを脳に直結させてその身体能力を競い合う「競人」という競技の選手(ジョッキー)達。
 兵器が進化し、それに対する防御技術も進化した結果、戦争の勝敗を分けるのは唯一肉弾戦となってしまったため、プログラムチップにより完全な兵士になることのできるジョッキー達が、兵士に選ばれたのだ。
 兵士でありながら、兵士としてのリアリティを感じることのできない男達。
 眠らない羊達が、戦場で見る、戦場でしか見ることのできない夢とは?


 あいかわらず、盛りだくさんな舞台。
 設定が複雑な上にストレートではない脚本だし、舞台全体は洗練されているとは言い難いし、マニアックなギャグは判らない人には内輪ウケに見えかねないし、SF慣れしていない人にはピンとこないストーリーだろうし、「万人に勧められる一般性」というのには欠けているんですが、私は個人的にこういうの、嫌いじゃないです。
 つ〜か、ツボにはまってます。(笑)
 なんてえか、「勢いを楽しむ舞台」ってんでしょうか?
 発声とか、ボディコントロールとか、練習を繰り返してする細部の練り込みとか、そういう面はこれからも上を目指して欲しいんですが、舞台全体では、変な小器用さを覚えたりこじんまりまとまったりして本来の味をスポイルすることなく、このまんまの勢いでばく進してほしいな〜と切に願います。
「おもしれ〜ぞ、もっとやれ〜〜!」って感じ。(爆)

 舞台の一般性のあるなしと、それが自己満足的身内向け舞台になるかどうかってのは、全然別の問題。爆男倶楽部の舞台は、一般性はないけれど舞台自体は決して観客不在の閉じられた物ではないと思う。
 私は、好きです。はい。


                             シナリオ3.5
                             演技  3.5
                             舞台演出 4
                             総合  3.5

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

赤鬼

 新津演劇研究会 佐藤仁プロデュース公演第一弾
 作:野田秀樹
 演出:佐藤仁

 閉鎖的な海沿いの村に、奇妙な噂が流れ始める。人喰いの赤鬼が出るというのだ。
 そんな村に住んでいる、一人の女。からだ目当てでなにかとつきまとってくる浜一番の嘘つき男・ミズカネをあしらいながら、頭の足りない兄・とんびと暮らしている。とんびと女は他から移り住んできた家系で、そのために浜の人々からうとんじられていた。
 ある日、漁に出た女は、噂の赤鬼と遭遇する。何かを喚きながら自分の目の前に立つ赤鬼が、どうやら水を要求しているのだと理解し、それをあたえたことをきっかけに、女は赤鬼を「オニ」ではなく違う言葉を話す「ヒト」であると考えるようになる。
 女の努力のかいもあって、赤鬼は一度は浜に住むことを許される。しかし、「アンガス」という名のヒトとしてではなく、あくまでもオニとしてであった。
 半年の後、アンガスと女の間に芽生えた感情に嫉妬したミズカネの言動に、様々な誤解が重なり村人は赤鬼と女を処刑することを決める。
 女を守ろうとしたミズカネは、とんびに船と食料を用意させ、二人を助け出し、四人でアンガスの仲間がいる海の向こうへと漕ぎ出した。
 しかし、アンガスの仲間の船は既に旅立った後。その上、とんびの勘違いのおかげで船には食料がなくて......


 ダブルキャストのAB、両方を観ました。
 女、とんび、ミズカネの三人を演じる役者が、他の村人を目まぐるしく演じ分ける複雑な脚本なのだけれど、両バージョンともに物語の支障になるほどの演じ分けの甘さはなく、「がんばってるな〜」という感じ。
 ただ、両方とも滑舌の悪さがとにかく気になった。クライマックスで引き合いに出す序盤の台詞が聞き取れず、「あの時ああ言ったけど」みたいなことを言われてもピンとこないという最悪のパターン。
 AキャストはBキャストよりも滑舌が良く聞き取りやすかったのだけれど、Bキャストの演技の方が味があったなあと、比較すると一長一短といった感じ。
 両方を観終わってみると、印象に残っているのは、Bキャストのミズカネ。Aキャストの方を後で観たので、ネタバレしてる分Aキャストの演技の評価は辛くなってしまうのだけれど、それを差し引いても彼の演技は良かったと思う。ヒネぶり、ワルぶりがナイスだし、「愛しているから」と本音を見せる一声では、きっちりインパクトを与えてくれた。途中、靴が脱げてしまうアクシデント(だよなあ、わざととは思えない)があったのだけれど、ごく自然にそれをフォローしたあたりもさすが。(こういうことを自然にできない役者が多いんだけどね)
 AB両方に出演していた赤鬼は、派手なアクションにかくれがちではあるけれど、実は細やかな表情の演技を見せてくれていたと思う。船の上から去るシーンでは、女に対して抱いている愛しさをしみじみと感じさせてくれた。外国の方ということで、今後の新潟での演劇活動があるかどうかはわからないけれど(ある場合でもシナリオが限定される不利もあるしねえ)、できれば続けて欲しいなあ。これっきりというのは、もったいないと思う。

 演技で気になったのは、先にも書いたBキャストの滑舌の他に、Aキャストの老人の演技。
 どうも、Aキャスト演じる老人は、老人らしく見えなかった。腰を曲げ、老人のポーズをとっている若者に見えるのだ。老人らしい足腰の弱さが感じられないのが原因ではないかと思う。


 舞台演出で気になったのは、四面に客席を、中央に舞台を配したセッティングだったのだけれど、舞台の使い方が今ひとつ多角的でなく一面が完全な裏面になってしまっていたこと。席を用意して「ご自由にお座りください」とやったからにはどこから観ても「観られる」舞台を作るのは当然のことだと思うので、これは大きな欠点と言えるだろう。
 ポールを四本立て、それに網の下がった棒を渡して壁や窓を表現していて、これ自体はとても面白く「上手い!」と思ったのだけれど、これのために裏面が固定されていたので、四面にこだわらず三面に客席を配する形でも良かったのではないかと思う。裏から観ていると、結構疎外感を感じた。
 壁に見立てたポールを「だん!」と音をたてて置いたり、「ばたん!」と舞台の中央の床を観音開きに開くとそこが船になったり、音響ではない音や舞台装置が効果的に使われていたように思う。そういう所が良いだけに、惜しいなあと思った。


 で、物語なんだけれど、こっちの方には結構文句がある。(以降、かなりネタバレ)
 まず、世界観の曖昧さ。
 単発のギャグの中に世界観と合致しないネタが入ること自体はよくある手法だし、それ自体に目くじら立てるつもりもない。ギャグにおいては、作品の世界をとりあえず置いておいて、観客により近い位置から観客と価値観を共有して笑いを共有するという手法がすでに確立されていて、観ている側はそれがギャグであると認識することにより、状況に応じて自在に自分の中で作品世界の世界観との切り離しを実現させることができる。世界観に合致するギャグはその世界の中のギャグとして、合致しないギャグは世界観から切り離したギャグとして受け止めるお約束が、すでにできているのだ。(これを逆手に取ったのが、劇団カタコンベの「死人と踊れ」であったと思うが、これは余談)
 例えば、ギャグの台詞の中に「ジーンズ」という言葉が出てきても、「英語を話す外国人の存在を知らない人々が、なんで米国産のジーンズを知ってんだよ!」とツッコミ入れる人はまずいない。それがギャグであることを理由に、反射的に物語の世界観から切り離して楽しんでいるからである。
 しかし、これが一瞬で通り過ぎてしまうようなギャグではなく、キャラクターの行動・心理と直接関わる台詞の中で使われるとなると、話は変わってくる。
 具体的に書くと、序盤で女につきまとうミズカネの台詞である。
 ミズカネは「泣いた赤鬼」の話を引き合いに出し、自分は浜の人々に女を受け入れさせるために犠牲的な行動を取っているのだ、泣いた赤鬼の中の青鬼のように、というようなことを口にする。
「泣いた赤鬼」という話は昔話ではなく、近代に創作された童話である。昔話においては、怪異であり、常に人に対峙する形で描かれるオニが、この童話の中では主人公である。感情移入すべき、かわいそうな存在である。つまりはオニを、現実に存在する人智の及ばぬ恐怖ではなく、近代科学の価値観を持って「そんな物は存在しない、空想の産物である」と単なるネタに貶めた上で、ヒトと同レベルに扱っている物語なのだ。
「泣いた赤鬼」が、こんな風に引き合いに出されるほどポピュラーに受け入れられている世界において、浜に現れた「化け物」はこれほど簡単に「赤鬼」と呼ばれ恐怖される存在になりうるだろうか?
 私には、この青鬼のたとえ話はどうにも浮いているように感じられた。

 もう一つ、気になったのは、(脚本の解釈にも関わるのだが)物語全体に対する人肉食の位置づけだ。
 中盤、村に住むことを許された赤鬼の前で、遠くの村からやってきた老人達が、「人魚の肉を喰って今まで長生きした。赤鬼の肉を喰ってもっと長生きしたい」と言い出すシーンがある。それに対して、アンガスは「Eat. And live.」(ヒアリング不正確(笑))と両腕を差し出す。結局老人達は、かじりついたものの歯が立たず冗談だとうそぶきながら去って行く。
 終盤、食料のない船の上、潮に流され浜に帰ることもできず、周囲に魚影もない状態で、最初に死んだアンガスを食べるミズカネととんび。しかし、もうろうとしているのに何を感じてか、一人アンガスの肉を食べようとしない女。ミズカネは「これはフカヒレだから」と嘘をつき、女に肉を食べさせる。
 その後、嵐に遭い難破し、出ていったはずの浜に打ち上げられて帰ってきた三人。そこで女は本物のフカヒレのスープを飲み、自分が船の上で食べていたのがフカヒレではなかったことを知る。
 クライマックス、あれはフカヒレではなくアンガスだったのかととんびとミズカネを問いつめる女が真実を知り、「オニはヒトを食べるからオニなんじゃない。ヒトが食べるものがオニになるんだ」「喰え、そして生きろとあなたは言った。私、喰ったよ、そして生きたよ」(大意)と言い、エピローグで女がそれから三日後に自殺したことがわかる。
 この、「喰ったよ、そして生きたよ」という台詞がポイント。本当にアンガスの言った「Eat. And live.」という言葉を素直に受け止めたのなら自殺するのは論外じゃないか? そうでないのなら、もっと逆説的なニュアンスや自嘲的な意味を込めながら台詞を表現しなければいけないのでは?
 全体に、人肉食というある意味ショッキングな物を物語を回すためのネタにしようとしたために、そちらに引きずられて中心がぼやけてしまった感じがする。
 女が自殺することを考えても、物語の中心は人肉食ではなく「オニはヒトを食べるからオニなんじゃない。ヒトが食べるものがオニになるんだ」という言葉に象徴される「差別(いじめ・排斥)の構造」の方にあると私は確信しているのだけれどな。


                             シナリオ 4
                             演技   4
                             舞台演出 4
                             総合   4

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

おまけ・はひひんの個人的演劇観

演劇の物差し


 一つの劇を評価するとき、いくつの物差しがあるだろうか? 複数の物差しがある場合、その優先順位は?

 私の場合、大別して「脚本の仕立て・言葉の選び方など、物語の技術」「発声・滑舌・ボディーコントロール・キャラクターの演じ方など、役者の技術」「舞台演出・音響・照明など、見せ方の技術」「その他」の4つの物差しがある。
 で、実は、私にとって一番優先順位の高いのが、「その他」だったりする。(その次が「物語の技術」かな?)
 技術的に問題が多い舞台であっても、私にアピールするその他の物があれば私にとっては「面白い舞台」になったりする。
 その他というのは、例えば「観終わった後に心に残る暖かさ」であったり、「役者の色気や艶(直接的なセックスアピールじゃないよ)」であったり、「舞台から自分に伝わるエネルギー」であったり。中には、「『そこまでやるかい!』な勢い」や「技術的に未完成であるが故の魅力」ってのもある。
 さらに私にとってのその他の要素というのは、結構微妙なバランスで良い悪いが判断されている。例えば「勢いのある舞台」ってのも色々で、悪ノリは基本的に駄目なんだけど、悪ノリであってもある域を突き抜けてしまうと許容してしまったりする。
 演劇批評なんて大した物ではないけれど、仮にも他人様の目に触れるところに観劇の感想なんぞを書いているのだから、一番優先されるのがこんな感性にのみ依存するいい加減な評価基準ではいけないのかもしれないけれど、でもそういう部分に心を動かされること自体が演劇の醍醐味だよなあとも思うので、改めるつもりはさらさらない。

 観劇の感想の下の所に(一応遠慮がちに目立たない色で)書いてある数値化した評価はあくまで技術面での評価なんで、文中でやたら面白いといっているのに数値が低かったりするのはそういう理由なんである。


 ついでに言わせていただくならば、この数値化は「感想文の長短や、文中で指摘する長所・短所の量と私の評価は直結しない」ということを表現するための手段である。
「自分達が懸命に作り上げた舞台に点をつけるなんて」とお怒りの諸兄もおありだろうが、私という一人の人間が評価するそれは、一般的・絶対的基準に基づいた数値化ではなく、あくまで私的評価基準に基づいた評価であることも含みおきくださり、ご容赦いただけると嬉しい。



越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

TWO

 劇団パラグラフプロデュース公演
 作:成井豊
 演出:山形理奈

 マリはウエイトレス。セールスレディの母と浪人生の弟・ノリオと一緒に暮らしている。
 そんなマリがある日出会った男、トオル。右手が不自由らしい彼は、マリの住むマンションの隣の部屋に引っ越して来たのだ。
 それから半年。マンションの自宅でトオルが開いた英会話教室では、閑古鳥が鳴いていた。生徒はノリオ一人。しかも、なにかと世話を焼いてくれるマリへの御礼ということで、授業料ナシである。
 その日、いつものようにノリオの授業中に顔を出したマリがトオルと話していたところに、トオルの兄と姉が訪ねてきた。一緒に外食することになって、出かける準備のために自宅へ戻るノリオとマリ。二人のいなくなった部屋で、医師であるトオルの兄はトオルの右手の診察を始めた。
 会話の節々から明らかになって行くトオルの秘密。
 トオルは実は、その右手で触れるだけで、他人の病気を治すことができるヒーリング能力を持っていた。
 拳を壊したプロボクサーの友人のためにトオルを訪ねてきた新聞記者をきっかけに、その能力はマリとマリの母の知る所となる。
 マリの母はトオルにノリオを治してやってほしいと言い出す。ノリオは心臓に先天的な欠陥があったのだ。
 しかし、トオルの能力には一つの問題があった。その特異な能力の代償として病気を治した分だけトオルの右手は動かなくなってゆくのだ。
 それを十分承知した上で、ノリオとボクサーを治療しようとするトオル。トオルを愛するが故に、それを止めようとするマリ。
 そして......?


 相変わらず、技術的なレベルが高い。
 発声や演技のあらが気にならないので、その分集中して物語が楽しめる。前提といえば前提なんだけど、これが意外に難しいのだよね。
 オープニング、トオル以外のキャラクター全員が声を揃えて台詞を言うシーンがあるのだが、途中わずかに乱れるまでは「うお〜〜、きたきた〜〜」という感じでぞくぞくした。簡単なようだけれど、これを完璧にしてくれる劇団って、実は少ないんだよね。どうも、「複数の役者が一糸乱れず同じ台詞を言う、その音」は、私のツボの一つらしい。(笑)
 トオルの演技も、右手が動かない演技が忘れられることが一度もなかった。完璧に演じると殆どの人の印象には残らないのに、少しでも失敗すると物語そのものを阻害する致命的なアラになるという、おっかない演技をきちんとこなしてくれた。
 気になったのは、マリの母の衣装。上半身は白ブラウスにアスコットタイ風に結んだスカーフと、仕事帰りのセールスレディっぽかったのだけれど、下半身がショートフレアのスカートに生足で全然らしくない。セールスレディらしくないだけでなく、マリやノリオのような年齢の子供がいる母親らしくないのだ。演技と上半身とに気を遣っているだけに、下半身とのギャップが違和感になって強く感じられた。


 物語は、素直といえば素直なんだけれど、どうもピンとこなかった。
 医師の父に憧れ、でも兄のように勉強ができなかったトオル。他者を癒すことができる特殊能力を得て、その能力を使う毎に少しずつ右手が動かなくなるというリスクがあっても、その能力を使うことに固執するトオル。
 途中、引き合いに出されるトオルの好きな小説の中の言葉がある。「It never has to be one way and no other way.(一つの道だけがあってそれ以外の道がないということは、決してない)」(訳はいい加減。劇中で何て訳されていたか覚えてないもんで)という言葉だが、それを「好き」と言いながら、能力を使うという一つの道だけにこだわるトオルの心理は、ちと理解できなかったりする。
 また、物語終盤では、ノリオは治療され、プロボクサーは「まだ自分はやり直しがきく年齢(25才)だから」と治療を拒否するのだが、そのノリオの治療が本人の意思をろくに確認せず(本人はトオルの特殊能力のことさえ把握していなかったろう)なされたのが、どうも納得行かない。ノリオは浪人生、プロボクサーよりもっとやり直しがきく年齢ではないか。
 物語に関する完全文句たれモードの感想は、最後に別色で上げておきます。劇に感動した人は読まない方がいいですよ。


 しかし、なんというか。
 舞台全体を見てみると、今ひとつという印象がある。
 物語そのものに対する不満とは別に、今ひとつなのだ。
 目立つ演技のアラはない。舞台演出上の問題点(ラストシーン、風船を空から降らせるのだが、その仕掛けが客席から見えてしまっていた)もあったが、それのためというわけでもない。目を引く役者もいたし、それなりのパワーもあった。でも、イマイチ。
 どこか、小器用にこぢんまりとまとまってしまったという感じが拭いきれない。
 ゲストを招いての公演ということで(ゲストの演技力の良し悪しではなく)、新しい刺激というプラスよりも、遠慮というマイナスが多く出てしまったのかなあ?
 泥臭いけど味がある歌の素人に、ヴォイストレーニングやらレッスンやらさせて洗練させようとしたら、味も素っ気もなくなったそこそこの歌になっちゃったって、そういう感じもある。
 精進を続ければ技術的に完成されたプロとしての歌にすることはできるし、レッスンの過程で新たな味を再構築して上手くて味のある素晴らしい歌になることもある。そこまで上がる途中の過渡期なのかなあなんてことも思ったりして。


                             シナリオ 3
                             演技  4.5
                             舞台演出 3
                             総合  4.5


 以下、完全に文句たれモードなんで、劇に感動した人は読まない方がいいですよ。忠告したからねっ。


 なんつ〜か、今回の脚本は凄く安易で甘くて浅いなあって、感じがするんですわ。「け、甘えてんじゃね〜よ」と観ながら思って、「甘やかしたまま終わるんじゃね〜〜!」ってエンディング観て思ってしまった。
 誰が甘えてるかって、主人公のトオル。
 医師になりたかったけれど、成績の悪いトオルは、突如特殊な能力に目覚めた。はい、それはいいですよ。でも、その能力に目覚めてから、トオル君はどうして医師になるための努力をやめてしまったのかな?
 たしかに、個々の人間には適性と能力の限界があって、努力したからといって医師になれるとは限らないけれど、それはできる限りの努力をしたあとで、初めて言える事。医師になるのに年齢の上限はないわけで、右手が動かなかろうと25才だろうと、トオル君は今からでも医師になることはできるわけだ。なのに、なんで今、医師になるための努力をしていないの?
 特殊能力があります。右手で触れただけで、人を治療することができます。ま〜、凄い。
 しかし、その代償として、少しずつ右手が動かなくなります。ま〜、大変。
 じゃあ、その本人がきちんと医学を修めたら? 現代医学の範疇で治療できる人は適切に治療し、それで助けられない人だけを能力で助けたら、より長期間に渡りより多くの人の命を救うことができるよね? なんでこれに気づかない?
 今、死にそうな人を助けられるのは自分だけだから、多少の犠牲を払っても助ける。それ自体は尊いことですよ。でも、救急車を呼べば済むかもしれない病気に能力を使うのは何のため?「他人のために自己犠牲を払っても何かをしてやる自分」に自己満足したいためだからじゃないの?
 私に言わせてもらえば、トオルは所詮「単に医師という立場に憧れていて、その真似事ができる能力に有頂天になって、自己犠牲という美辞麗句に酔いながら能力を振り回している子供」に過ぎないのだよね。
 んで、そういうトオルが、エンディングを迎えても全然否定されない。
 なんか、「やすっぽいメロドラマ」って感じ。ぼ〜っと流されながら観てるとそれなりに感情は励起されるけれど、それだけ。
 なんかな〜〜と、思っちまいましたことよ。


越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

あなたから逃げていく街に漂う煙について

 劇団カタコンベ第34回公演
 作・演出:戸中井三太

 近未来のスラム街の一画に、女が一人。
 首から下げたホワイトボードには、「私は 私です」の文字。「私は」と「私です」の間は、何か書いてあったらしいのだが、かすれ消えて何が書いてあったのかわからない。そして女自身もその中身を、「私は」『どのような』「私です」なのかを知らない。女は記憶喪失なのだ。
 その女の回りに現れる人々。
 尻から地面までぶら下げた紐をアースにして、双子の弟をこの街で殺された悲しみを地面に逃がす男。脳死状態だったその弟を丸ごと売り払った、人体の臓器の売買を仲介する臓器ブローカー。その臓器ブローカーに、自分の取り分はいらないが自分の臓器を売って貰いたい女。
 それらの人々の間で、次第に鮮明になって行くホワイトボードの女の記憶。その記憶は、アースの男の弟と深く関わっていた。
 女の記憶が全て戻ったとき、彼は?
 壊れた街の、壊れた人々の、どこかからりと乾いてしまった悲しみの物語。


 年内再演が予定されているそうなので、ネタバレ控え気味で行きます。歯切れが悪くなりますが、ご勘弁。

 ダブルキャスト(臓器を売って貰いたい女役)の両方観ました。
 全体のレベルは文句ナシに高いので、とても安心して観ていられた。
 ホワイトボードの女は、記憶を失っている時の演技はとても良かったのだけれど、記憶が戻り明らかになった過去と現在のイメージのギャップが少しあった。記憶を取り戻したからといって、過去のその時点の彼女に戻るわけではないし、その過去から様々なことを経て変化した現在に至るわけだし、その過去そのものにぴったりくるイメージを演じる必要はないのだけれど、そういう過去を持っているリアリティを感じられないってのも、なんか物足りない。(厳密に言うと、「過去したこと」に関するリアリティはあったのだけれど、「過去にいた環境」に関するリアリティがなかった。ああ、歯切れ悪い(笑))その過去にふさわしいある意味「饐(す)えた」雰囲気みたいなのがもう少しあっても良かったかなあと、思ったりする。
 脇役がダブルキャストってのは意外だったが、どちらも捨てがたい味があった。
 アースの男の、クライマックスでの演じ方は、とても雰囲気があって良かった。

 演技で少し気になったのは、アースの男のギャグの扱い方。
 元々ギャグの多い脚本なのだけれど、「笑いながら言うべきギャグ」と「真顔でボケるべきギャグ」の使い分けが甘かったと思う。
「だめだめのギャグでしょ〜、あ〜〜、やっぱりだめだめ〜」という感じで笑いを誘うギャグは、役者が「ギャグを言う前に笑ってしまう」という感じで言って良いし、むしろその方が面白かったりするのだが、「これを笑いながら言われると、逆に客は冷める」というギャグもある。(というか、こっちが基本だけど)
 前者のギャグに味のある脚本だけれど、後者のギャグもきっちり扱った方が面白いと思う。

 演出で面白かったのは、小物の使い方。
 書いて消してができて観客に提示しやすいホワイトボードや、臓器ブローカーが臓器を売る人間を撮影するために持っているという設定のカメラの使い方が、面白みがあると同時にとても効果的だった。

 ところで、「ガムテ」というのは一般的に使われるけれど、「ビニテ(絶縁ビニテ)」というのはあまり一般人にはなじみのない言葉だよねえ? 私はしばらく「ビニール手袋? 台所で良く使うのゴム手袋のことか?」と悩んでしまいました。(だって、絶縁体だし〜)「ビニールテープ」の略だったのね。(汗)


 ともあれ、満足。


                             シナリオ 5
                             演技   5
                             舞台演出4.5
                             総合   5

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

消えなさいローラ

 劇団・五十嵐劇場第6回公演
 作:別役実
 演出:伊藤裕一

 アパートの片隅の荒れ果てた部屋で、出ていった弟・トムを待ち続ける女の話。
 ある日、ローラの部屋を訪ねてきた、男。彼は葬儀社の人間で、依頼の電話を受けた上司の命令でこの部屋に来たのだという。男の対応をしたローラの母は、何かの間違いだと男を帰す。
 男が忘れ物の帽子を取りに部屋に戻ると、さきほど会った女が出て、自分は母ではなく娘のローラであると言う。さっきは部屋の隅のベッドで頭から毛布をかぶって寝ていたはずの娘が今、目の前にいて、さっきの母親は入れ替わりにベッドの中で毛布をかぶっているのだと。
 そこにいる女は母なのかローラなのか? 毛布の中身は?
 そして、彼女が待ち続けているトムはどうなったのか?


 私が初めて観る、「既製脚本の」劇団・五十嵐劇場の舞台。
 今までかなり難があった発声・滑舌が良くなっていて、凄く観やすかった。
 男役がとても良かった。演技がきっちり練り込まれていて、マジボケのローラに振り回されるギャグシーンの表情など絶妙。クライマックス、ローラにもう弟を待つ必要はないのだと告げるシーンもきっちりインパクトを出してくれていた。
 対してローラ。オープニングが長めの独白で、しかもかなり観念的な内容だったので、観客をつかまえ切れなかった感じがある。もう少し、声の調子やセリフのリズム、間などを練り込んだ方が良かったのではないかな?
 ネタバレるが、物語は実は母は既に死んでいて、ローラ自身が一人二役をしていたという内容なのだが、この演じ方がしっくりこなかった。純粋に、脚本自体の問題による役の難しさが原因だったように見えたので、これは後述。
 狂気をはらんだローラ、弟に執着し続けるローラはとても良かった。
 照明の中、吹き消されたろうそくの芯から立ち上る煙の美しさが、印象的だった。


 さて、脚本。
 面白いには面白いのだけれど、全体に、どうにも冗長な感じがした。焦点が定まらないというかなんというか。
 例えば、「ローラが何故、母親が生きているように擬そうしなければならなかったか?」と「ローラが何故、母親を死んだことにできなかったか?」の二つの理由がまるで別々で、両方が同じくらいのウエイトで舞台上で語られる。
 最後の弟が死んでいたという下り以外は、全部が同じ比重で扱われ、つまり全部同じくらいに重要なので、観ている側が緊張が保てずダレてしまったのかもしれない。

 また、観終わってみると、どうしても首をひねってしまう物語だったりする。
 観客を引っ張る仕掛けとしての「ローラ自身の一人二役」が、どうもご都合主義的に扱われているように思うのだ。「ローラは二重人格でも母親に憑依されてるのでもなく、自らの意志で母親を演じている」という謎の答えが表に出ているローラの言動の裏にあるはずなのに、途中のローラの言動がそれに沿っていないのだ。
 一見どうなのかわからないけれど、後で謎の答えを見せられると、『ああ、そうだったのか』と全てのパーツが整合性を持って結合し一枚の絵になるのが、こういう物語のお約束だと思う。一枚の絵自体が難解であったり、あるいは肝心の謎の答えを与えないことで一枚の絵になること自体を妨げたりという形でお約束を裏切る物語もあるし、それはそれで良いのだ。けれど、絵自体がきちんと一枚の絵になっていないというのは、整合性のない絵で観客を裏切ること自体が舞台のテーマでないかぎり、問題があるのではなかろうか?
 どうも、舞台としての面白さ(観客を混乱させるローラの言動)にとらわれて、物語の中で生きているローラという役がぼやけてしまっているように感じられた。
 例えば、母が既に死んでいて、ローラが母親を演じているのだろうと疑っている男の前で、ローラの人格が混乱する一瞬があるのだが、多少精神が病んでいるとはいえ、決定的な破綻をきたすことなく三年もの長い間、母を演じ母の死を隠してきた人間のやることとは思えない。
 シーンだけを抜き出してみると確かに面白いのだけれど、観終わってみるとどうもすっきり面白いと言えない。もっと突き抜けて、そういう整合性の無さを楽しませる脚本まで昇華してくれないと、私は納得できないんだよね。


 さて、越佐の劇場には感想を書いていないが、実は劇団・五十嵐劇場の芝居は「華飾の囚人」から観てたりする。そこから、「暗き水、オレンジの灯」「錨をあげろ! 旅立ちは月夜がいい」と観てきたが、今回の公演は今までのものとはかなり質的に異なったものとなったように思う。
 今回のような洗練されシェイプされた感じもいいのだけれど、個人的には「華飾の囚人」や「暗き水、オレンジの灯」の持っていた淫靡さや、「錨をあげろ! 旅立ちは月夜がいい」まで持っていた内臓感覚の精神的グロさも捨てがたいのだよね。そうか、ああいう味は、劇団の味じゃなくて、脚本の味だったのだねえ。
 まあ、不可逆な劇団の変化を観るのも、楽しみの一つになりつつあったりして。
 気が早いことに、「次はどんな感じになるんだろう?」と思ったりしてます。


                             シナリオ 4
                             演技   4
                             舞台演出 4
                             総合   4

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

おまけ・はひひんの個人的演劇観

演劇と踊り


 劇の中にダンスシーンを入れる劇団って、結構ある。
 結構あるんだけど、「観せるにふさわしいレベル」のダンスができる劇団ってのは、新潟の劇団ではあまりない。素人目に見ても「踊るための基礎」が無い所に無理矢理「振り付け」という形を乗っけているのが判る劇が多すぎる。上半身だけで踊ってて下半身が全然踊ってなかったり、同じ腕の振りでも肩の入れ方が違ったり、ターンの軸ぶれまくりだったり。
 それが、シナリオ上の必然というのならダンスシーンが入れられるのはしかたないけれど、「どうしてもそこにダンスが必要だ」と思える劇ってのも、あまりない。正直なところ、必要ないのに下手な踊り見せられるって、舞台全体から見るとマイナスの効果しか持たないと、私なんかは感じている。
「舞台の絶対必要な要素としての踊り」でないなら、下手な踊りで観客を冷めさせるよりはすぱっとカットすべきだし、どうしても譲れない「シナリオ上の必然としての踊り」や「『自分達は他のどれでもなく、踊りという手段でこのシーンを表現したいんだ』という踊り」であるなら、最低限の品質にするための努力を最大限にするべきじゃないかな?
 舞台に踊りを乗せるなら、バレエの基礎の基礎くらいは勉強してほしい。(大人の初心者向けの教室だってあるんだし)姿勢の作り方とか、ボディコントロールとか、芝居に通じる物も多いだろうしね。せめて、「踊る=ステップを踏む」ということを理解してないレベルの踊りは、舞台に上げて欲しくないなあ。
 それが舞台に必要な踊りであるのなら、その重要度は「セリフ」や「演技」と同じくらいでしょ? 手ぇ抜いちゃいけないと思うんだけどな。



越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

s・f 〜small space fantagy〜

 劇団マジカル・ラボラトリー旗揚げ公演
 作:門松 晃生
 演出:三上 輝之

 宇宙の果てを越えた宇宙人の少女・マミが、帰ってきて卵を生んだ。卵の父親は宇宙の縁の向こう側にあるもの、宇宙という秩序の世界を越えた果てにあるもの、すなわち、混沌。
 宇宙の秩序を乱す、混沌を父とする卵を破壊しようとする宇宙人達。マミは卵を守って逃亡した。
 地球の日本のある丘の上では、へそのない少女・星野清美が夜空を見上げていた。彼女は捨て子で、自分の親を知らない。今日も夜空に輝く星を見ながら、まだ見ぬ両親に思いを馳せていた。
 そこに突如降ってくる流れ星。
 轟音と衝撃に気絶した清美が意識を取り戻したとき、そこには追っ手から逃れて地球にやってきた卵を抱いたマミがいた。
 マミと卵が現れてから、清美の周囲に次々と不可解な人々が現れる。
 遠い未来でレジスタンスをしていて、時間を遡ってレジスタンスの先祖(清美)を殺そうとする暗殺者から清美を守るためにやってきた、清美の子孫・キヨスケ。
 記憶を無くし暴走してしまったアンドロイド(清美)を再調整するために追う、天才科学者・堂坂博士。
 性別を間違えて女になり前世の記憶も失ってしまった生まれ変わり損なったロミオ(清美)を小指の赤い糸をたぐって見つけだし、改めて男と女に生まれ変わり晴れて来世で結ばれるために殺そうとするジュリエットの生まれ変わり・江藤寿里。
 本人もそれと知らず別世界で修行させられていた魔法の国の王女様(清美)を、ぬいぐるみに姿を変えて見守っていたお目付役、国王の命により王女を魔法の国に連れ帰ろうとする魔法使い・リズマ。
 果たして、清美は本当は何者なのか?
 そして混沌を父とする卵から、一体何が生まれるのか?


 劇団マジカル・ラボラトリー旗揚げ公演なのだが、公演の打ち方がちょっと変わっていた。
 それぞれ「ホシノフッカツ編」「ホシノシュッパツ編」と銘打ち、二十日以上の日を開けて二回の公演を打つ。しかも、パンフを見ると「同一シナリオ別演出」らしい。
 パンフに曰く、『「ダンス」「殺陣」「役者の力押し」の”力のフッカツ編”と、「音響」「舞台」「映像」の”技のシュッパツ編”』だそうだが、試みとしては面白い。
 今回私が観たのは「ホシノシュッパツ編」。後から「フッカツ編、観ておけばよかった」とちと後悔。

 さて、「旗揚げ公演だから」という割引は一切ナシで行きます。辛口御免。

 とにかく、全体に「もう一歩が足りない練り込み不足」という印象がある。
 例えば、演技。
 舞台は二人の宇宙人の会話から始まるのだが、この会話が観客を物語に引き込む力を持っていない。内容的には興味は引かれるのだけれど、その表現に難があるのだ。
 難というのは、滑舌の悪さや、セリフのやりとりのリズムの悪さ、メリハリの無い動き、決まらないポーズ、その場の流れ全体のテンポの悪さなど。その難が、物語がこちらにすんなりと伝わるのを妨げている。
 様々な場面で散見される同様の難が、舞台そのものを物語として楽しませることを難しくしている。

 脚本と演出のためか、きちんと性格付けをしてある役が多いのだけれど、舞台の上で役者がその役を適切に表現することができていない。
 役の性格を把握する。役にふさわしい要素(仕草・語調・表情)を、周囲の人々を観察して取り込み、あるいは既に取り込んであるものから拾い上げ、集める。集めたものを吟味し、必要のない部分を捨て、再構築する。再構築したそれらをより効果的に表現する工夫をする。それを表現するために足りていなければ肉体の訓練をする。表現の習熟・洗練に努める。
 役を表現するために必要なこれらの段階を、無意識に完璧にこなしてしまうセンスのある役者もいるけれど、そんな役者ばかりではないってのは当たり前の話。
 要素の集め方が足りなかったり、集めた要素を盛り込みすぎてうっとおしい演技になったり、要素の表現に声の調子・間の計算などの工夫が足りなかったり、発声・滑舌・四肢の筋肉・表情筋・平衡感覚の訓練が足りなくて的確に要素を表現できなかったり、それらを不自然でなく表現するにいたるまでの習熟が足りなかったり。
 そういう足りないものというのは、やっている役者本人にはまず見えないものなので、これを「役者の力量不足」と個人の責任にしてしまうというのはあまりにも酷。
 役者により難になるものが違っているところをみると、全体を見ながらがしがしダメ出しをする人がいなかったのか、あるいはそんな時間的余裕がなかったのかと疑ってしまう。
 う〜ん。

 舞台演出も練り込み不足。
 演出の意図している所はわかる。でも、それを意図したとおりに舞台の上に表現する技量が圧倒的に不足している。それがきちんとできたときにどれだけ面白いかもわかるだけに、ものすごく勿体ないと感じてしまった。
 例えばオープニング。プロジェクターを使い、音楽とともにシナリオ的に重要な文章が書かれた映像を映し出すのだが、書かれている文字が読み取り難いほどにピントが合っていない。きちんとピントが合っていたら、何の抵抗もなくその文字を読み取りその文字の内容に思いを巡らすことに集中できたろうが、読みにくいそのことに煩わされている状態ではそれもかなわない。
 例えばエンディング。逆光の中にシルエットを浮かび上がらせるライティングにしたいのは分かるのだけれど、逆光を当てるライトの角度が悪くて、逆光の中に立つシルエットのコントラストが出ない上に、会場の白い天井に当たったライトの照り返しで、まるで客席の電気が点いたようになってしまった。客電の点灯というのは、客を舞台の夢から覚ます合図そのものだから、これは大変に具合が悪い。
 あと、気になったのは舞台の広さ。
 役者の技量の割に舞台が広すぎる感じがした。登場と退場に時間がかかってしまっていて、どたばたコメディ調の割にスピード感がないのが気になった。

 がしがし辛口で書いてきたけれど、光るところも多かった。
 宇宙人のマミは、常人離れしたムードがよく出ていたし、主人公の清美の振り回されっぷりもよかった。ジュリエットの思いこみの激しさも良かったし、リズマの魔法でサルになってしまったキヨスケも見事なサルっぷりを見せてくれた。
 個人的に先が楽しみなのは、リズマ役。肉体的訓練は足りていないのだけれど、ふとした時に見せる表情にセンスの良さが感じられた。
 舞台の見せ方としての演出は、照明などの大仕掛けにこそ問題はあったが、細々とした小物使いや舞台の使い方など面白かった。

 脚本は、はっきり言って好みです。
 盛りだくさんで、サービス精神に溢れていて、でも単なるどたばただけでは終わらない。
 おへそネタは、手塚治虫の名作漫画・W3(ワンダー・スリー)を懐かしく思い出してしまいました。(近頃の若い子は知らないだろうから、この伏線でバレバレってことにはならないんだろうなあ)
 ほんの少しだけ文句を言わせてもらえれば、卵が孵ってから後(終劇後のご挨拶も含めて)が少々冗長だった。
 クライマックスの後は、さっさと観客を現実に帰した方が劇の余韻が残るよね。


 あげつらった難は、全て努力と慣れでカバーできるものだと思う。
 団員が社会人ということで、圧倒的な時間不足が一番の問題であるのもわかるのだけれど、光るものがあるだけに、そこに甘えずもっと上を目指してもらいたい、もっと良い舞台を見せてもらいたいと、希望します。
 とりあえず、もっと完成度を高めた「s・f」が観たかったりして。


                             シナリオ4.5
                             演技   3
                             舞台演出 3
                             総合   3

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

燃えるお父さん’99

 爆男倶楽部ギガ・プレステージ’99 Vol.2
 作:橋爪丈

 父ひとり子ひとりの父子家庭。
 父はマッチョジジイ・八ちゃん。息子はエリート公務員・一ちゃん。
 父は事あるごとに腕相撲の勝負を息子に挑み、それに負けたことを理由に息子に毎日筋力トレーニングを強要していた。
 息子が何を言おうとまるで意にかけず、あくまでマイペースな父。息子はついに反抗を試みる。実は息子は、腕相撲勝負でわざと負けていたのだ。
 隠していた実力を発揮し父を下し、トレーニングから逃れる自由を得た息子。しかし、父はどこかで見たような筋力養成ギブスをつけて密かに厳しいトレーニングを積み、再度息子に勝つ。
 ふたたび父を倒すため、息子の自主トレーニングが始まる。
 父は何故、ここまでして息子に勝とうとするのか? 息子にトレーニングを課していた理由は?
 そして、最後の決戦の火蓋が切って落とされる。


 とにかく、父・八ちゃんのパワフルジジイぶりがナイス。
 元々、ビルドアップした肉体を持つ肉体派役者さんだけれど、その老人らしくない筋肉をさらしても演技で「ジジイ」と認識させてくれる。「ジジイだけどパワフル」「パワフルだけどジジイ」という表も裏もちゃんと納得させてくれる演技だった。
 また、特筆すべきは「ギブスを着けた時の父の演技」。ギブスのスプリングが常に肘を折り曲げた状態になるように引っ張っていて、それに抵抗しながらトレーニングしたり、ご飯を食べようとしたりというマイムが、とてもわかりやすくかつ面白くできていた。見せる動きの筋肉の使い方、動かし始める筋肉と同じくらいに動きを止める筋肉も重要であることを把握している動きは、めりはりがあって見やすく理解しやすかった。
 父の幼なじみの銀ちゃんも、間の扱いに細々としたアラがあったものの、いい味が出ていた。
 気になったのは息子の自主トレのシーンでの独白。私は、あくまでも自然にトレーニングをしながらの独り言のように演じた方が良かったのではないかと思う。
 言ってもしょうがないんだけど、息子役が父役に対抗できるくらい筋肉があったら、すごく見映えしたんだけれどなあと、そこのところだけちょびっと残念。
 クライマックスに入るとき、ライトの中に浮かび上がる八ちゃんの後ろ姿の広背筋は、それだけでものすごい説得力があって、役者にとって何よりも大切な個性は、演技以前にその肉体そのものなのだよなあと、改めて思いましたことよ。

 爆男倶楽部の舞台ってのは、舞台装置も含めて「力技」が面白いのだけれど、今回は舞台装置ではない力技を存分に楽しませてもらった。腕立て伏せをするだけで笑いを取るのは、爆男ならではのまさに「力技」。
 もともとパロディ的要素が強いので、「ロッキーのテーマ」や「ファイナルカウントダウン」などのベタベタのBGMも、ベタベタだからこそ良いという域までいっている。
「ここまでやるなら許す!」ってところまでやってくれるとこが、とても良いです。

 面白かったです。はい。


                             シナリオ4.5
                             演技  4.5
                             舞台演出 4
                             総合  4.5

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

大走者網 〜巡る輪廻でラブアタック!!〜

 新潟大学演劇研究部第93回定期公演
 作:赤井俊哉
 演出:豊田容之

 嵐の夜。刀を腰に差した男が一人。そこに一夜の宿を借りに来た夫婦連れ。
 男は夫婦連れを家へ招き入れ、二人を斬り殺してしまう。男は追い剥ぎだったのだ。
 時は流れて明治。
 飛脚問屋の亀屋東西の娘・お梅に縁談が持ち上がる。相手は維新のどさくさに紛れて警察権力を一手に握った鶴屋南北。その縁談の裏には、鶴屋は亀屋と組んで情報ネットワークを手中にし、亀屋は鶴屋と組んで全国に亀屋の勢力を広げるという両者の目論見があった。
 一方、お梅の兄・メロスは、亀屋の長男であるはずなのに雑用ばかりでこき使われ、一向に飛脚の仕事を与えられないことに焦りを感じていた。そんなある日、父・亀屋東西から自分は実は捨て子であったことを聞かされる。捨て子であったメロスを育てた自分に感謝し、亀屋の跡を継ぐなどという野心は持たず、せっせと働いて恩を返せと言う亀屋東西に、メロスは頷く。
 縁談を嫌い鶴屋南北から逃げ回るお梅。どうやらお梅には、密かに心寄せる相手がいるらしい。鶴屋南北の手下達が調べてきたお梅の恋の相手は、血の繋がらぬ兄・メロスその人であった。
 それを知った亀屋東西は、メロスに飛脚としての初仕事を与える。お梅を鶴屋南北と娶せるために、その道中でメロスを亡き者にしようと計画したのだ。
 畜生道・修羅道・餓鬼道・地獄道・人間道、六道のうちの五道を巡る旅路の中で、メロスは時を越えた真実を知る。
 メロスとお梅はかつて追い剥ぎに殺された夫婦の生まれかわりだったのだ。そして、亀屋東西こそが、二人を殺した追い剥ぎであった。
 メロスを追いかけるお梅。お梅を追いかける鶴屋南北。彼等の追走劇はどこまで続くのか?


 このところの公演が平日で観に行けなかったので、新大劇研を最後に観たのは一年以上前。しばらく観ないうちにかなり毛色が変わったな〜と、嬉しい誤算。

 良かった役者は、鶴屋南北と、六道を管理する六道入道、鶴屋南北の手下・東田&西田。
 特に良かったのは鶴屋南北。エキセントリックな役柄を派手な動きで演じるのだけれど、ボディーコントロールの訓練ができているので、その動きが目障りではない。決めるべきポーズをふらつかずにびしっと決めることができるというのは、役者であれば当たり前に要求されることなんだけどできる役者は少なかったりするのが実状。
 手に持った刀でゆっくりと、下が開いたコの字型に空間を切るマイムがある。下から上に切り上げた刀の切っ先を動かさずに身体を移動させてから次いで横へ切る。ゆっくりとした動作だからこそアラが目立つこのマイムを、あせらず、きっちりと、マイムにとらわれ演技を忘れることなくそこで出すべき緊張感を漂わせながらこなすあたり、「おお!」と思わせてくれました。
 いま一つだったのは、お梅と亀屋東西。
 亀屋東西は、オープニングにモノローグがあったのだけれど、間の使い方と発声・活舌がイマイチで、観客を掴んで物語に引き込む力が弱かった。
 お梅は、動きが整理されていなくてうっとおしい。それに加えて靴と舞台の床の材質の関係かやたら靴音がどたばたとうるさくて、少々難ありの発声・活舌と合わさってセリフが聞き取り辛かった。
 発声・活舌が良ければ、靴音にセリフが消されることはない。靴や床の材質によっては、靴音は小さくなり問題ない。動きにリズムがあれば、靴音にもリズムが出て、おなじ騒音でも許容しやすくなる。動きが整理されていれば靴音も減り、同じく許容しやすくなる。複数のマイナス要素が組み合わされた結果としてのセリフの聞き辛さなのだけれど、私にとってこれが物語に入り込む妨げになったのは確か。

 物語上で気になったのは、鶴屋南北がお梅を追う動機。
 話の上では単なる鶴屋と亀屋を結びつける政略結婚的な面だけしか出ていないのだけれど、だとしたらお梅とメロスに最後の最後まで執拗に追い縋る鶴屋南北に納得がゆかない。
 ラストの方の鶴屋南北の執念を感じさせる怪しい雰囲気はとても良いのだけれど、それが物語の中できちんと位置づけられてないのだろうか? 振り返ってみると、ほんの少しだけ違和感がある。
 まあ、その違和感以上に舞台の空気が良かったんで、ここらへんを突っ込むのは野暮かなとも思ったんだけれど、物語上の整合性を持たせた上であの雰囲気が出るならその方がいいかとあえて書いてみた。

 ライトを組み込んだ舞台装置、蛇の目傘やロープを使った演出など、照明効果も合わせ視覚的にインパクトのあるシーンが多かった。
 演出に加え、キャラクター設定や役者の雰囲気もあってか、かつて劇団・五十嵐劇場が持っていた淫靡な匂いがそこはかとなく漂ってきて、マル。


                             シナリオ 4
                             演技   4
                             舞台演出 5
                             総合   4

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

越前牛乳 〜飲んでリヴィエラ〜 あだると編

 劇団MAMEカラット
 作:松村武
 演出:石附弘子

 9月にリメイク版の再演を予定しているということで、物語はネタバレ控えめ。

 時は、越後の猛将・上杉謙信と甲斐の武田信玄が争う戦国時代。
 国境いの牧場で祖父と子牛のドナドナとともに平和に暮らしていたハイジ。しかし、闘いの余波はここまで及び、祖父は殺されてしまう。
 数年後、ドナドナの乳を糧に森で隠れ暮らしていたハイジの前に、祖父の幽霊が告げる。「市場でドナドナを売って、かけがえのないものを手に入れなさい」
 市場に行ったハイジの前に現れたのは、越前屋と越後屋。
 越前屋は苦渋に満ちた過去を塗り替える新しい過去と、越後屋は生涯の伴侶との素晴らしい未来と、ドナドナを引き替えようと持ちかける。
 ハイジはドナドナを過去と未来どちらと引き換えるのか?


 劇団MAMEカラットの舞台を観るのはこれが初めて。
 全般に、ボディコントロールの訓練はできているのに発声・活舌が悪いという、今まで観てきた劇団とは逆の傾向があったように見えた。
 ほとんどの役者が衣装替えしながら一人二役・三役をこなすのだけれど、衣装に頼らずに各キャラクターの演じ分けをきっちり意識しているのがとても良い。正直言うと、「韋駄天探偵=元木=ウエイトレスはなえ」の三役は、キャスト表を見るまで一人とは気がつかなかった。
 コメディということで、キてるキャラクターが多いのだけれど、そういうキャラクターの立て方、見せ方が上手い。セリフの言葉の選択、衣装の選択、小道具の選択などのハードと、役者側のしゃべり方、間の取り方、動作というソフトと、(発声・活舌の問題点を除けば)双方をきちんと練り込んでいる役が多かった。
 でも、個々の役者という良いものを持ち寄ればそれで全体が良くなるというわけではないのが難しいところ。

 全体を見てみると、どうにも冗長さが気になった。
 考えてみると、二つの原因を思いついた。
 一つは、脚本の仕立ての問題。
 この劇においては、随所にマイクを通したナレーションが入っている。そして、そのナレーションだけによって提示される伏線というのが多かったように思う。舞台の上に乗っていない情報というのは、観客には受け取りにくい。越前屋と越後屋がらみの前半の舞台の上に、それ以降に観客の興味を引っ張れる伏線が明示されていないので、ナレーションによって伏線が提示され後半に入る辺りで、「え〜、まだ続くの?」という感じで観客の緊張がとぎれてしまったようだ。ナレーションだけに伏線を任せるのは無理があったように思う。
 もう一つは、全体のテンポ。
 小ネタのやりとりなど、各シーンの中のテンポは良いのだけれど、各シーンの繋ぎであるナレーションにスピード感がない。場つなぎとして必要な時間とセリフの量と出したい雰囲気にギャップがあったのではなかろうか?
 演歌の前振りのような雰囲気を出したいのなら、もっとセリフの量を減らしてナレーションの時間を短くして客が落ち着いてしまう前にさっと次へ繋ぐべきだったろうし、場繋ぎとしてある程度の時間を必要とするのなら、ナレーションに重要な要素(伏線など)を語らせる役目はあきらめて、テンポが良くゴロが良い韻を踏んだ言葉を大量に早いペースで入れて舞台全体のスピード感を保ちながら次へ繋ぐべきだったろう。
 ついでに言えばこのナレーション、マイクを通した音声に無茶苦茶違和感を感じた。なんでだろ? 舞台における記号化のコードに則っていないからだとは思うのだけれど、何処がどういう原因でそうなっているのか、上手く説明できない。む〜ん。とりあえず、そう感じたということで。

 盛りだくさんでサービス精神に溢れた脚本には、好感が持てる。
 ホリゾントの前に4本の布を張り、奥と手前を使い分けた奥行きのある舞台使い、ラストの笑いを取ってくれる垂れ幕使いなども面白かった。
 ただ、こういう要素の多い脚本は、がーっと一気に突っ走ってしまうノリと勢いがないと、どうしてもスピード感がなくなってしまうように思う。で、そういうノリとか勢いとかは、細々としたところに気を取られると削がれがちになってしまうのも事実だとも思う。
 このあたりのバランスというのは、本当に難しいよね。

 ともあれ、9月のちゃいるど編にも期待。


                             シナリオ 3
                             演技   4
                             舞台演出 4
                             総合  3.5

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

Fire Waltz

 デン吾朗一座・雨上がりのアトリエ公演
 作・演出:明屋秀市

 舞台は潰れたショウパブ。
 新聞紙の散らかったフロアの中には、二人の元従業員、ヒロシとゴローがいる。
 二人は女と逃げた店長をこの店で待っているのだった。
 そこに売れないジャズシンガーのキョウコをつれてやってきた自称天才プロデューサー・オカダ。オカダは強引にこの店でキョウコが歌う契約を結ぶ。
 二人だけだった空間に、不意に現れた異物・キョウコ。
 ここにキョウコはどんな変化をあたえるのか?

 
 今回の舞台はシアターゴーイング前に役者としてのキャリアの少ない団員に、小品で経験を積ませようという意図があるらしい。ヒロシ役・ゴロー役は今までの舞台でダンサーとして参加していた人達で、役者としての舞台は初めてなそうな。オカダ役は、本人初舞台の前公演ではまっていた役をそのまま再登場させている。
 で、舞台はというと、ちょっと消化不良な感じが否めない。
 セリフの出がかぶったり、セリフが出なくて長い間ができたりという、かなり初歩的な失敗が散見された。
 舞台装置として、床にくしゃっと立体的になった新聞紙が一面に散らばっているのだが、これが動く度に音をたてる。発声がもうひとつ良くないので、その音に声が負けることも多かった。
 オカダ役は、前公演では良かったのだけれど、今回はセリフがちゃんと入っていないせいかノリがいまいちだった。
 とにかく、問題点があまりにも多くて、物語がストレートに楽しめない舞台だった。

 でも、この舞台、本来展開したかったであろう舞台の物語とは別の次元で、大変に面白い舞台だったりした。
 何が面白かったかって、ヒロシ役の芝居勘の発揮ぶり。
 序盤の演技は、発声が悪く、演技も現実の中で実際にするような言動で舞台の上のコードに則っていないために「自然だからこそ舞台の上では自然に見えない不自然さ」を感じるようなものだった。
 それが、途中入場してきた子供が客席全体に聞こえるくらいの声で母親に話しかけはじめると、一変する。観客を舞台に集中させるようという気持ちからか(もっと反射的なものかもしれないけれど)、ぐっと発声が良くなり、演技も「観客の目をひきつけるもの」に変わったのだ。
 また、セリフが前後するアクシデント(本人のセリフが出なかったのか、相手のセリフが早かったのかはさだかではないが)を同じセリフをさらに繰り返すことでテンポよく続けたり、あるはずの小物がないのを誤魔化したり、他の役者のセリフが出てこなくて開いた間をアドリブのギャグで繋ぎ、その上プロンプターまでつとめたり。
 決定的な破綻をしかねない失敗だらけの舞台を、なんとか舞台の形にまとめようとする反射神経というか勘の良さというか、そもそもそれをしなければいけないということを把握していること自体とか、とても役者初舞台とは思えなかった。
 実は、デン吾朗一座の前公演でのダンサーとしての彼も良かったと私の記憶に残っていて、今回かいま見せてくれた役者としての片鱗とあわせて、将来は「きちんと踊れる役者」になってくれるんじゃないかと、ちょっと期待。

 まあ、かなり邪道な方向ではありましたが、楽しませていただきました。はい。


                             シナリオ 3
                             演技   2
                             舞台演出 4
                             総合   3

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る

シェスタ・フィナーレ

 劇団 開放宙域〜考えるペンギン〜 旗揚げ公演
 脚本:劇団 開放宙域〜考えるペンギン〜
 演出:木村敏雄

 物語をここで書くのは難しいので放棄。(っていうか、そもそも明確な物語自体存在しないような)

 舞台では二人のOL・うららとまどかの日常が演じられる。
 しかし、同じセリフ同じシーンが繰り返されるとその日常は非日常に変化する。
 また、まどかの日常は繰り返しの間に次第にズレて非日常にシフトしてゆき、まどかの非日常に対峙するうららは日常を演じ続ける。非日常に対峙しながら日常から外れないということ自体が非日常。
 最後には他の全てが消滅する中で、一人、うららだけが日常を生きて行く、その非日常性。
 日常と非日常が複雑な入れ子構造になっている、面白い脚本でした。


 以下、例のごとく、辛口御免でまいります。
 脚本は面白い。やりたいことはまあわかるし、それが面白いこともわかる。けれど、それをイメージ通りに表現し、客席に伝える技術がもう一つ足りない。
 日常のマイム、まどかがお弁当をつめたり、うららが母親を押しのけたりという、この舞台の上で一番重要な「日常を日常として観客に認識させるためのマイム」に問題があるので、非日常とのコントラストが甘くなっている。
 また、舞台を通じて背後に一人の男が座っていて、象徴的なマイムをしているのだけれど、このマイムが甘いのでその意味が取りにくい。
 マイムをわかりにくくしているのと同じ原因が、途中で入る2回の踊りの時にも悪い影響を及ぼしている。その踊りの振り付けから感じられる「表現したいであろうイメージ」と実際の動きにギャップがあるのだ。
 これらの問題は、マイムやダンスにおける「抵抗」の重要性の認識不足がかなり大きく影響していると思われる。

 例えば、電子ジャーの蓋を閉めるマイム。
 実物の電子ジャーの蓋を閉める行為をするときに動く筋肉だけを使い、それを同じように動かすことで「電子ジャーの蓋を閉めるマイム」を表現しても、実は「それらしく」みえなかったりする。
 何故かというと、実物の電子ジャーの蓋を閉める時には、その物体からの抵抗が閉める手に働くからだ。だから、実物を使わずにマイムでそれを表現するときには、その抵抗を自分の筋肉で生み出さなければならない。
 この「抵抗」を意識しないでマイムをしていると、止まるべきところで止まれない、めりはりがなく、だらだらと流れてわかりにくいマイムになってしまうのだ。
 ダンスにおいても、綺麗なポーズ、綺麗な動きをキめるには、振り付け通りに手足を振り回すだけでなく抵抗を意識することが重要だ。

 その他で気になったことは二つ。
 一つは、電車に乗っているマイム。
 脚本の中で、電車というのは永遠に回り続ける日常を乗せる乗り物という役割を与えられていて、バスではなくあくまで電車であることがそれなりの意味を持っていると思われるのだけれど、それに乗っているマイムが、電車に乗っているらしく見えない。
 うららが座り、まどかが吊革につかまって立っているのだが、それぞれにとってどちらが進行方向で、今その電車がどういう状況なのか、加速中なのか、減速中なのか、右にカーブしているのか左にカーブしているのか、そのあたりをちゃんと考えているのだろうかと思ってしまった。
 もう一つは、様々な小道具を舞台に運ぶ黒子の足音。
 裸足で膝を曲げてすり足で歩く演出ではあるのだけれど、ステージの材質のせいかずりずりとかなり気になる音がした。他に音のない状態で出ることが多かったので、生身の人間を感じてしまって今ひとつだった。もっと無機的なイメージを出したかったのではないかと思うのだけれど。

 序盤、多少の冗長さがあったが、繰り返しが外れて行くあたりからはそれほど気にならなくなった。
 アンケートには、日常であるはずのうららの生活が、ベッドで食事をするなどかなり一般人の日常生活とかけ離れていることが気になったと書いたのだけれど、日常・非日常が複雑に入り組むこの脚本においては、これもまた面白いかと考え直したりして。


 とにかく、やりたいことが面白いことだというのはわかるし、実際かなり面白かった。
 舞台の雰囲気や醸し出す緊張感も良い。独特の衣装のセンスも良かった。BGMの選曲、ライティングも工夫されていた。
 でもだからこそ、「これで細かいところがちゃんとできていたなら、もっと面白かっただろう」と残念に思ってしまったのだ。


                             シナリオ 4
                             演技   3
                             舞台演出4.5
                             総合  3.5

越佐の劇場へ戻る
ホームへ戻る