自転車のスピードで終わる夏劇団サン・フェイス '99真夏の大恋愛公演作・演出:佐藤広樹 舞台は夏の海岸。ビーチサイドにはFM局の特設スタジオがある。 午後の海岸にやってくる様々な人々。 ビーチサイドのスタジオでの番組に生出演するためにやってきた、ブレイク中のシンガーソングライター・千景と、マイナーな頃からの恋人でもあるマネージャー・姫子。 16歳の娘を妊娠させた娘の恋人に発砲した罪で収監された刑務所から、出所してきたばかりの元刑事・恵比寿と、刑事時代の彼に助けられ、恩返しをしたいとつきまとう青年・大介。 両親亡きあと、残された妹を女手一つで育てるためにがむしゃらに両親の残した空手道場を切り盛りしてきて婚期を逃しそうな姉・南海子と、姉自身の幸せを掴んでほしいと主張する妹・静枝。 そして、不倫相手から別れを迫られているラジオ番組のパーソナリティ・琴音と、妻に子供が生まれることをきっかけに関係を清算しようとしている琴音の不倫相手の番組ディレクター・木島。 ついでに、あっちこっちで顔を出す、謎の酔っ払い。 4組8人+1人の事情が、一つのラジオ番組を接点に次第に明らかになり、やがてそれぞれの結末を迎える。 相変わらず、きっちり仕上げてくるなあというのが第一印象。 役者の人数が9人と多いにもかかわらず、発声・活舌・ボディーコントロール・ダンス・キャラクター設定とその表現、どれも物語を物語として楽しませるに足るレベルまで全員をしっかり叩き上げてきてるので、とても安心して観ていられた。 抜けていたのはシンガーソングライター・千景と謎の酔っ払い。細かい間の使い方、表情のつけ方が一つ一つツボにはまってて快感。体をかばわないコケや、クライマックスで必要なときに観客にインパクトを与える発声を完璧にこなすあたり、役者として積み重ねた基礎訓練の量を感じさせられた。 他に目をひいたのは元刑事につきまとう青年・大介と、嫁き遅れ寸前の姉・南海子。大介は、妙な生真面目さや誠実さに加え、どこか少年らしさが抜けきらない感じがあって、「更生した元・不良少年」というのがぴったりくる演技だった。南海子は「がむしゃらにやってきた女の、女らしさの捨てっぷり」の演技の思い切りの良さがナイス。 後述するが、舞台の最初から最後まで出ずっぱりの番組パーソナリティの琴音も、緊張を切ることのできない辛い役だったろうに、片時も演技を忘れることなく好演してくれた。 さらに、相変わらず、凝った仕立てのシナリオをきっちり見せてくれるなあというのが第二印象。 この脚本は、同時進行で4つの設定の愛をテーマにした物語を展開し、それら全体が一つの流れの物語になっている。ばらばらな4つの物語を、登場人物からラジオ番組へのリクエストFAXや舞台の海岸をうろつく酔っ払いを接点に実にうまく繋ぎ合わせている。これだけ登場人物が多いと、それぞれに背負っているものを説明するだけでも大変なのに、観終わってみると意外なくらいにすっきりしていて、まるでごちゃついた印象がない。キャラクターの背景を表現する目立つネタ(歌やギャグ)を利用して情報量の多さにもかかわらず観客がすんなりと受け取れるように作ってあるあたり、さすが。 面白いのは、この物語の「見せ方」。 なんと、この複雑な物語を、暗転無しの実質的一場モノでやってしまったのだ。 舞台の中央奥にしつらえたDJブースに常に琴音を置く。ブースの前のスペースは状況によって時に特設スタジオから離れた海岸に、時にスタジオ内のスペースに変化する。例えば、海岸で会話をする姉妹の後ろで、琴音が番組を進行している様が無音で演じ続けられ、妹がラジオのスイッチを入れると現在オンエア中の琴音の番組が流れてくるという仕掛けだ。 さらにその番組に妹がFAXを送っていて、恋人のプロポーズを受け入れない姉のことを相談していて、琴音がそれに答えたり、妹のリクエストに応えて曲を流している間に、スタジオの中で琴音とディレクター・木島の物語が展開したりするのだ。 リクエスト曲が終わると琴音はブースに戻り、再び無音で番組進行の演技をするブースの前で、また別の登場人物達の物語が繰り広げられる。 このような感じで暗転を挟まずに、4つの別々の物語を一つの番組の流れに沿って有機的にリンクさせながら演じてしまうのだ。 半ば力技とも言えるこの構成が、全体の物語そのものを実に面白く見せてくれた。 で、ここから先が辛口になるのだけれど。 ん〜〜、脚本&演出に関しては歯切れが悪くなってしまうのだよねえ。 どうしてかというと、今回の舞台、「面白さと欠点が背中合わせ」だから。 ポイントは2点。 暗転が無いことと、4つの物語があること。 暗転が無いのは、物語を面白く見せるという点ではプラスだけれど、観客が息を抜くことができず、観ていてものすごく疲れる。 4つの物語があって、それが繋がって一つの物語になるというのも、その仕立て自体がとても面白いという点ではプラスだけれど、4つの物語それぞれに結末をつけるためクライマックスが立て続けに4つあるようなもので、これも大変に疲れる。 普通、こういう風に「観客が息を抜けない」舞台の場合、「観客が緊張に耐え切れずダレる」ということになるのだけれど、この舞台の場合は「ダレることを許さないほどに面白い」ので、逆に疲れてしまうのだ。 人間、長時間何かに集中しつづけることは、普通できない。よほど夢中になるか、よほど集中の訓練をしていなければ無理なことであるし、たとえできたとしても代償としてかなりの疲労を伴う。 また、人間、座っているとはいえ同じ姿勢を続けるのは辛い。こと、舞台という集中すべき対象がある場合、少しでも身体的にリラックスして対象に集中したいから、余計に同じ姿勢を強いられるのはキツイ。 暗転というのは、単に役者の準備や舞台のテンポを整えるためだけの時間ではなく、一度集中を切って再開された舞台に再び集中させるための精神的、身体的休息を観客に与える時間でもあると私は思う。暗転の間に、がまんしていた咳をしたり、姿勢を変えたり、首をコキコキやって肩の筋肉をほぐしたりというのは観客がよくやることだし、同じことは暗転以外の舞台の上で話が展開している時にはなかなかできないことである。 また、クライマックスというのは、観客に一番の集中を求める時間である。クライマックスが長いということは、そのできがよければよいほど観客はひきつけられ、長時間の集中を強いられるわけだ。 格別にできがよい舞台であれば、「時を忘れるほどの集中」というのもありうるのだけれど、それにしても時間的限界があるわけで、4つの物語の4倍の長さのクライマックスを乗り切るだけのものにはならないだろう。 とにかく、暗転が無く、4つの物語があることによって、ひどく観客に負担がかかる舞台になってしまったのは事実だと思う。でも、この2点こそがこの舞台の面白さのキモだとも思うので、「む〜〜」と唸るしかないのだな。 そのほか、気になったことをいくつか。 演技の面でひっかかったこと、一つは琴音のDJトーク。 ラジオ番組のトークにしては間が長いので、ラジオらしさが出ない。間の使い方、しゃべっている間の視線の使い方が、ラジオ収録中のスタジオの中のそれではなく、テレビ番組のアナウンサーのそれになってしまっていた。特に、舞台のオープニングでもあり番組のオープニングでもあるトークは、もっと間を短く畳み込んだ方が(決して早口でしゃべれというわけではない)らしくて良いと思うし、後半、リスナーからのFAXに自分の不倫の恋を照らし合わせてふと本音がこぼれたしゃべりとの対比も出しやすいのではなかったろうか? もう一つは、姫子の動きの演技。 クライマックス、千景のプロポーズに驚く姫子。千景はポケットから指輪を出し、姫子の左手を取り薬指にはめてから、姫子を抱きしめる......のだけれど、姫子がその千景の行動を既に知っているかのように動いているのが気になった。さっきまで、別れるの何の言ってたはずでしょ? 驚いてるはずでしょ? なのに、なんで千景が左手を取っただけで指輪をつけやすいように指を伸ばしてるの? 抱き寄せようとする千景に抱き寄せるより早く体を寄せるの? プロポーズされてそれまでの迷いが即時に消えたようにも見えない。心理的変化が表にあらわれていないのにこういう動きをされると、「役の心というバックボーン無しにそのシーンの形だけを焦って演じようとしている」ように見えて、違和感が先に立ってしまった。 脚本&演出面で気になったのは、ビーチの特設スタジオという設定の曖昧さ。 要は、オープンスタジオなのか、そうでないのかが判然としないのだ。 オープニング後、琴音が進行する番組の中で千景をゲストとしてスタジオに招き入れ、ちょっとしたトークのあとで一曲ギター片手のスタジオライブをするシーンがある。その時、DJブースの琴音が頭上で手拍子を取ることで観客の手拍子を誘導したのだが、これに少々の違和感を感じた。 クローズドなスタジオなら、首を振ってリズムに乗るくらいはするだろうけれど手拍子はあまりしないだろうし、しても胸元でするくらいだろう。頭上で手拍子というのはこの場合、他者に手拍子を求めるアクションであり、そうするからにはここはオープンスタジオなのだろうと私は感じた。 でも、舞台の観客とオープンスタジオの外に立って番組進行を見ている観客は本来別の存在なので、「このシーンにおいては、舞台の観客=オープンスタジオの外の観客である」という観客を舞台に取りこんでしまうお約束を確認できる演出の無い状態では、私は手拍子をすることができなかった。 (いや、観ている時には瞬時に「あ、オープンスタジオなのか〜」とか「ここで手拍子するのって抵抗あるな〜」って思うだけで、こんな理路整然と思考してるわけじゃないですけどね) さらに物語が進んでゆくと、リクエスト曲の流れる間に琴音と木島の別れる別れないの修羅場がスタジオ内で展開されるのだが、その辺りの後半はクローズドなラジオ局のスタジオをついイメージして観てしまっていたのだ。そのほうが、何でも無いような番組進行の裏で、実はどろどろに修羅場ってるというシチュエーションの面白味があるせいもある。 でも、前半は夏限定のビーチの特設オープンスタジオってイメージがあって、前半と後半で自分自身の中でそれが混乱してしまっていた。 「あれ? ここって、オープンスタジオじゃないのかあ? 衆人環視のオープンスタジオで、こんな風にすがりついたりひっぱたいたりの修羅場は、普通できないよねえ? いや、クローズドなスタジオだって、実際には他のスタッフがいるからスタジオの中ではできないけどさ。じゃあ、実はスタジオの裏のひと気の無い場所だったりするのか? でも、ここ、ビーチの特設スタジオで、普通のラジオ局のビルとは違うよねえ? そんなスペースあるのかあ??」......って感じ。 さらにもう一つ。 最初に入れられたダンスシーンは、振り付けの徹底と訓練の積み重ねが感じられる十分なレベルのものだったのだけど、今回の上演場所、床に座布団を敷いて観客を座らせる状況では、少し見栄えが悪かったのではないかと思う。 何故か、舞台と客席の距離が近い・段差が少ない状況でのダンスシーンって、どうも観ていて照れちゃうんだけど、これって私だけ?? 例のごとく辛口で細々書いてきましたが、これが十分に楽しんだ上でしている「重箱の隅つつき」であることを改めて書いておきます。 とにかく、この完成度と脚本の仕立てのセンスは、とても好きだったりする。 シナリオ 5 演技 4.5 舞台演出4.5 総合 4.5 |
七砂神爆男倶楽部ギガプレステージ'99 Vol.3作:不二家キー子 演出:久保朝太郎 西暦2000年問題を目の前にした1999年のある日、NTTの電話時報サービスを管理しているコンピューターが謎の故障を起こしてしまう。 目覚し時計片手に、電話を掛けてきた人にコンピューターの代りに口頭で時報サービスをする一人の女。しかし、彼女の時報は実にいいかげん。時報を聞くために電話してきた女は、そのいいかげんさにツッコミを入れているうちに、なんとなく時報の女と仲良くなる。 時報の女に誘われて彼女のいる電話交換室にやってきた女は、留守番電話機を利用することで時報の女を時報役からときはなってやる。 やっと電話交換機と目覚し時計から解放された時報の女は、やがて、弟が謎の子供から聞いたという流れる砂の神様の話を始める。 そこへやってくる、定年間際のNTT職員、小池。彼もまた、幼少の頃に謎の子供から砂の神様の話を聞いていた。 そして、別な時、別な場所に別の女がもう一人。彼女は現実感を失う日常の中で、何故かどこからか響いてくる流れる砂の音を聞いていた。 時報サービスコンピューターはなぜ止まったのか。そして、人々の耳に届く砂の音とは? 砂の神様とは? 物語は象徴的で、解釈が難しい。よって、解釈は放棄。ただ、舞台から受けたイメージだけを受け取ることにする。 ギャグの面白さは良かった。けれど、その場その場の面白さだけでなく、舞台全体から伝わってくる不思議さや怪しさ・妖しさもとても良かった。 気になったのは、一つは序盤の暗転の長さ。 オープニング、暗転を挟みながら象徴的な短いシーンが二つあるのだけれど、舞台装置の関係で高所に上ったり降りたりを暗転の間にしなければならず、それに時間を取られるためか暗転時間が長くなってしまった。ビジュアルとして高所に役者を配した構図はとても良いのだけれど、オープニングでこう長い暗転(=間)があると観客が芝居にノリ難い。ちょっと損しているなと思った。 もう一つは、暗転の長さにも関係するのだけれど、暗転時のBGMの扱い。 BGMを鳴らしながら暗転に入ってからBGMをフェイドアウトさせるまでの間が、とても短かかったのだ。余韻は無いわ、舞台でごそごそやっている音は如実に聞こえてしまうわ、音楽が無い分暗転はより長く感じるわ、それまでの流れがぶちきれるわという感じ。もっと暗転前のBGMをひっぱったほうが良いと思うのだけどな。 役者で特に良かったのは時報の女。生真面目すぎるマジボケのキャラクターの雰囲気を、良く出してました。 爆男と言ったら力技の男芝居というイメージがあったのだけれど、今回は女優三人男優一人というキャスティング。 演出も、今までにない構図の取り方とかをしていて(演出者は不明)、今までにない幻想的というか不思議な雰囲気が良く出た作品でした。 意外な顔を見せてもらったなあ、という感じ。 シナリオ 3 演技 4 舞台演出 4 総合 3.5 |
PILGRIM劇団パラグラフ第12回公演作:鴻上尚史 演出:山形理奈 六本木実篤は、オカマの書生・直太郎と一緒に暮らしている落ち目の小説家。理想を掲げ、多くの人と家計と生活をともにする共同体・コミューンを運営していた過去を持つ。 唯一の連載小説もついに打ち切りになってしまった彼に、編集者・朝霧は書き下ろし刊行用の小説の執筆を勧める。最初は気の進まなかった六本木であったが、アイデア出しの助けになればと朝霧の残していったメモを読み、そこに書かれていた伝言ダイヤルに興味を持ったことをきっかけに、新しい小説を書くことを決意する。 小説の内容は、様々な共同体を離れた人々が、オアシスを求めて旅をするというもの。六本木はその小説を書くうちに、小説の中に取り込まれてしまう。 多くの困難を乗り越えた小説のキャラクター達と一緒に、ついにオアシスにたどり着いた六本木。 しかし、オアシスの住人達はそんな六本木を、オアシスを真なるオアシスにするための生贄にしようとする。 役者の技術は高いので、安心して観ていられた。 衣装、舞台装置なども、見せ方を心得ているなあという感じで気持ち良い。 ほんの少し気になったのは、一つの盛り上がりである六本木が生贄にされるシーン。十字架に縛られた六本木と、肉体を操られている長い槍を手にしたキャラクター達。絵になるアイテム(十字架&長槍)を見せられて「どんな風に視覚的にインパクトのあるシーン(構図・動き)を作ってくれるかな〜」と期待したんだけど、思ったよりも面白くならなかったこと。ちょっと、肩透かしを食らった気分。 物語は、う〜ん、という感じ。 各シーンは面白いし、刹那的にはそれなりに楽しめるのだけれど、全体を見渡すと散漫で不満になる。 例えば、直太郎がオカマであることの必然って、全然感じなかった。噂(あるいは都市のフォークロア)の伝達機構としての伝言ダイヤルのネタも、面白いのだけれど扱いが中途半端。 この二つの要素は、なんて言うのか、全てを観終わっても「それがこの舞台に必要である」と納得できないのだ。単に、人目を引くためにかき集めたネタのようで、浮いているように感じた。 共同体のネタと、夜の家に住む黒マントの男のネタ、六本木と直太郎の裏の関わり。様々なネタがあるのに、それが今一つきちんとした形に繋がっていなくて、それぞれのネタが分離している様に感じられた。 共同体を維持するのには共同体を再確認しつづけること、すなわち共同体全体で対峙すべき存在が必要で、周囲にそれらがなければ必然的に共同体内部から生贄を選び出すことが必要になる。オアシスを真なる理想の共同体にするためには、まず、生贄を共同体全体で殺すことが必要なのだ。このような共同体の不条理な性質を描くのが物語の中核なのだと思うのだけれど、違うのか? なんか、観終わって「ねえ、ねえ、これで終わり? もっと面白いんじゃないの??」と思ってしまったというのが正直なところ。 まあ、私の嗜好するところから離れている脚本だってことに過ぎないんだけどね。 シナリオ3.5 演技 4.5 舞台演出 4 総合 4 |
シーマン一発屋番外公演作:中嶋かねまさ・村井孝昭・渡辺健 演出:中嶋かねまさ 確かな物語は無いので、物語を書くことは放棄。(近頃、こういうのが多いな〜) 舞台の上ではブラックなギャグとともに、物語のお約束が次々と破られて行く。 例えば、ロボットヒーロー物のワンシーン。 敵ロボットは一つの町にバリアを張り、町の住人を人質に取る。正義のロボットを操縦するヒーロー達は手も足も出ない状態、唯一の望みは博士。ところが、何故か頼りの博士は赤ん坊だったりする。 観客に、あるシチュエーションが提示される。観客は、そのシチュエーションに類似した過去の物語のお約束に従い、舞台の上に表現されていない部分を無意識に類推する。しかし、舞台の上でその推理はきわめてナンセンスな方向で裏切られる。 それが延々くり返されるのだが、逆にそのお約束破りこそがこの舞台におけるお約束になっているのが面白い。 中途半端だと「なんだこれ?」となるところだが、ここまで徹底してやってくれるのなら「それもまたよし」と受け入れられる。 役者で印象に残ったのは、謎の女(正体はカニ??)。 人間離れした雰囲気と、容赦無いツッコミのタイミングがナイス。 私自身結構楽しんだのだが、それにしても観客の反応が異様に良かったように感じた。 ちょっとしたギャグでどっと沸く。なんか、自分は全然知らなかったけれど、すでに人気が出ているコメディアンの舞台を観ているような気分。そりゃ面白いけどさあ、「面白いの? 本当に、声に出して笑っちゃうくらいに面白いの?」とちょっとした疎外感を感じた。 う〜ん、私のノリが悪かっただけ?? シナリオ 3 演技 4.5 舞台演出 4 総合 3.5 |
メロディ・フロム・ディア・マリー'99一発屋プロデュース公演作:中嶋かねまさ 演出:星野あつし ある日、春野クリニックの医師・の春野春男のところへ、オカマの敬が飛び込んでくる。 敬の友人であり、敬と同じく春野クリニックの患者でもあるマリーがいなくなったのだと言う。 春男は、マリーから自分に宛てられた置手紙を、敬から渡される。しかし、その手紙は白紙だった。 そこに現れるFBIのモルダー&スカリーのコンビ(そう、あのXファイルの登場人物ですな)と、TVのご対面番組のディレクター・凛子&その助手・一葉のコンビ。彼らもまた、過去、マリーと出会い、マリーから白紙の手紙を受け取り、マリーを探してここまできたのだ。 登場人物のやり取りの中から浮かび上がる、マリーの捕らえどころの無い人物像。TV番組を通じたマリーへの呼びかけに応えるように送られてきた、何も入っていないカセットテープと、誰もいない砂浜に打ち寄せる波だけが映されたビデオテープ。 そして次第に明らかになる、マリーから白紙の手紙を受け取った人々の共通点。 マリーとは一体何者なのか? 白紙の手紙の真意は? 客演を多く招いてのプロデュース公演だったが、遠慮無くきっちり仕上げて来たな〜という感じ。 ダンスシーンそのものを観客が楽しめるレベルまで引き上げてくれている舞台自体、アマチュア演劇では珍しいと感じているのだが、「お客様」になりかねない客演者も含めたダンスシーンをこれだけのレベルに仕上げるというのは、なまなかにはできないことだと思う。 さて、以下ネタバレ御免。 演技&演出上で気になったのは、春男と敬の心理とその表現。 なんつ〜か、クライマックスに春男が見せるマリーへの執着が、納得いかない。いや、動機と言う点では、きちんと言葉で説明はされているのだけれど、マリーが失踪してからの舞台の流れの中での春男の言動にマリーへの執着が全然感じられない。本来、伏線として記憶に引っかかっていてしかるべきなマリーから白紙の手紙を受け取った時の演技が、まるで印象に残っていないというのも気になる。 また、敬というキャラクターにもなんとなく納得行かない。 クライマックスになると、敬は両性具有者であり、実は、敬とマリーは同一人物であったというオチが明らかになる。 セリフをすんなり受け取ると、敬は春男に近づき他の三人を集めるための都合でマリーによって作られたキャラクターということになる。敬=マリーには、両性具有ゆえの性同一性の混乱はあっても、決して自己同一性の混乱(解離性同一性障害、いわゆる多重人格症)はないはずだ。敬のキャラクターは、マリーの中の別人格というのではなく、マリーが演じて作り上げている人格であるはずなのだ。 なのだけれど、なんか納得行かない。 多分、クライマックスで敬役とは別に心象としてのマリー役(女優)を出してしまったために、敬の仮面を捨ててマリーになっているはずの敬役の男優をマリーとしてうまく受け入れられず、その後のマリーとしての敬の言動を敬のキャラクターを引きずったまま観てしまったからなのだろう。そのせいで、敬とマリー、本来はマリーのほうがオリジナルなはずなのに、どうしても敬の方がオリジナルに見えてしまい、それが違和感になってしまったようだ。 クライマックス、春男を思わず抱きしめる敬のせつなさが伝わってくる演技は良かったのだけど、「マリーのせつなさ」ではなく「敬のせつなさ」と躊躇無く書いてしまう私なのだな。 あ、舞台の出来とは直接関係無いんですが。 マリー(女優)の舞台の上でのコスチュームは、イメージ違ったっす。プロジェクターで映し出された海辺に立つマリーの衣装が、スリムな紺のワンピース(マーメイドラインの)に見えたんで、ブラインドの向こうに現れたピンクハウス系ぶかぶか寸胴ワンピに、「ち、違う。何か違う」と思っちまったです。 色々難癖つけてますけど、おもしろかったです。はい。 シナリオ 4 演技 4.5 舞台演出 5 総合 4 |
子どもの宇宙小賭的 第11回公演作:遠山美枝 物語をここで書くのは難しい。 記憶を失った男が一人、暗くて冷たくて狭い場所で、お母さんを探している。 少女が一人、日常の中で目にした絵本に書いてあった、子どもの宇宙を探している。 そして一郎、二郎、三郎の小学生の兄弟達。きれいなお母さんと、シロウというまだ赤ん坊の弟と一緒に住んでいる。しかし、シロウを連れて買い物に行ったはずのお母さんは、帰って来た時にシロウを連れていなかった。 あ〜〜、だめだ、うまくまとまらない。ネタバレさせてしまおう。 実は、シロウは一郎、二郎、三郎兄弟のいる現実には実在していない。兄弟の母親がまだ17歳のときに妊娠し、産み落とした子供がシロウなのだ。母親の両親は母親からシロウを取り上げ、養子に出すと嘘をついてコインロッカーに捨ててしまう。母親はその後でその事実を知ったものの、社会からつまはじきにされるのを恐れて何も出来なかったのだ。 長い時を経て、母親の前に現れたコインロッカーの中で成長したシロウの魂。母親は過去の罪を清算するために、兄弟の前から消える。 取り残された子供たち。しかし、彼らはあくまで自由だった。 大人社会に収まるために子供を捨ててしまった母親。大人社会の様々なものに削られて行く少女がもっと幼かった頃の大切な思い出。そして、大人に夢を奪われ、大人の夢を押しつけられ、それでも自由な子供たちの物語、だと私は理解したのだが違っているかも知れず。 物語の支障になるような演技のあらは無かった。女性ばかりの出演者で記憶を失った男(実はコインロッカーに捨てられたシロウの魂)や三兄弟を演じるのだが、女優が男を演じることで出る中性的なイメージが子供の未分化な性と見事にオーバーラップしていて、大変に効果的だったと思う。 しかし、演技が妙にこぢんまりとまとまっていたように感じられたのが気になった。今回はライブハウスでの公演だったのだが、その狭い舞台の中に元々のパワーをセーブして自ら納まってしまっているような感じ。なんていうか、ガラス瓶の中でガラスにぶつからないように用心して飛び回っているような、少々の違和感を感じた。 演技以外では、かなり気になったところがあった。 序盤、駅のコンコースを移動し、コインロッカーを開けて中を覗き込む映像をプロジェクターで映し出した演出はよかったのだけれど、その後映写タイミングのミスがあったのは痛い。 また、暗転時、暗幕の張り方が悪くて外光が舞台への出入りの度にさしこむのだが、これがなかなか癇に障った。公演中の舞台に日常を持ち込まれたようで冷めてしまうのだ。暗幕一枚で解決できるはずのイージーミスだったと思う。昼間の公演環境のチェックが甘かったんではないかな? お面を使った演出はとても効果的だったし、子供の無邪気さが良く出た演技も良かったので、ちょっともったいない感じ。 しかし、この脚本のラストで「大人社会の常識を脱ぎ捨て、幼い頃に思いを巡らせれば、子どもの宇宙はそこにある」という意味のことが語られるのだけれど、その例えとして上げられる「幼い頃に遊んだ風景」は、もう、今時の若い者には縁の無い世界のように思えてしまった。整備された公園ではない原っぱで遊べる子どもって、今の時代どれだけいるんだろう? 少なくとも、公演を打った長岡市には、そういう環境って無いような気がする。 シナリオ4.5 演技 4 舞台演出2.5 総合 3.5 |
髪をかきあげる劇団東方無敗第1回公演作:鈴江俊郎 演出:藤田貴幸 恋人の部屋に勝手に合い鍵を作って入りこむ留年大学生・中川。そんな中川をセックスフレンドと切り捨てるOL・トモヨ。既婚者でありながらあっけらかんとトモヨをデートに誘う、トモヨの会社の同僚・早川。中川にドイツ語を教わっている短大生・めぐみ。中川のアパートで出会っためぐみに一目ボレしてしまった中川の友人・村井。そして、夜の河川敷で季節外れの蛍を探す、子どもを失った夫婦。 それぞれに心のどこかに、誰にも埋められない隙間を持った人々の物語。 なんてえか。 しっとりしたと言えば聞こえがいいけれど、悪く言えば起伏が少ないので、とても難しい脚本だと思った。派手で明確な観客を引っ張るネタがないし、クライマックスだって派手なところはなんにもない。そんな舞台の場合、その分各シーンのやりとりをきっちり練りこまなければいけないのだけれど、それができていないように感じた。どうにもかったるい。 村井のからむシーンは村井役の技量のおかげでそれなりのテンションが出るのだけれど、逆にそのテンションの高さが他から浮いてしまっている感もある。だからといって、村井役が押さえてしまったら、なおさらかったるくなりそうで、やっぱり難しい脚本だよなあと思ってしまう。 私だったら、夫婦のシーン以外のテンションをもう少し上げるかなあ? そうしたほうが、あの夫婦だけのシーンの持つどこか優しい虚無感というか、乾いた喪失感というか、そういうものが浮かび上がったんじゃないかなって考えたりもする。 演技の面で気になったのはトモヨの活舌の悪さ。ラストの独白が聞き取れないってのは致命的。 脚本上で気になったのは、セックスの暗喩である「馬」の扱い。 どうも中途半端で浮いていたように感じた。 面白かったのは舞台演出。 2段に分けた舞台の中央に、段差をまたぐように足の長さの違う机を置いて、上段を座卓のある部屋、下段を会社や喫茶店の椅子のあるテーブルとして使う。下手にL字型に舞台を伸ばして、そこを河川敷にする。一つの空間を上手に使い分けていて、それがとても面白かった。 舞台の内容とは全然関係無いところでとても興味深かったのは、村井役のセミヌード。 村井役をやったのは、新大劇研の「大走者網」で鶴屋南北を演じた、とてもボディコントロールのできている役者さんだったのだけれど、いやあ、スリムながらきちんと筋肉のついた良い体でした。 これくらいの筋肉がないと、「観せるに足る動き」はできないんだねえと、納得。 やっぱ、役者は身体が資本なんだなあと思いましたことよ。 シナリオ 3 演技 3 舞台演出4.5 総合 3 |
越前牛乳〜飲んで、リヴィエラ ちゃいるど編劇団MAMEカラット作:松村武 演出:石附弘子 以前上演した作品の別キャスト別演出版。 なので、ストーリー紹介は省略。 物語は知っている状態だったので、すんなりと観ることができた。 前回公演の「スピード感の無さ」「物語とナレーションとのギャップ」という問題点を、きっちり解消してきたところはさすが。 特に、紙芝居風に絵を使ってする物語の解説は、前回の欠点を解消する以上に効果的であったと思う。とぼけた絵柄もナイス。 漫才かコントかという仕立ての前説からそのまま舞台に繋ぐのは、指向するところは面白かったのだけれど、前説のやりとりが滑り気味で観客をきっちりつかまえられなかったので逆に舞台へ上手く導入することができなかったような感じがあった。 演技の面では、前回に比べ全体的にキャラクターを表現しきれないたどたどしさが目に付いた。 特に気になったのは、じじ様の老人の演技。 女性が演じているのを割り引いても、あまりにも「老人」らしくない。何か、物まねタレントのしている誰かの物まねをさらに真似して、それを見た人がさらに真似してというのを繰り返すうちに、形骸化され、記号化されてしてしまった物まねを見ているような気分だった。 腰をまげて杖をつけば老人になるわけじゃない、文字で書かれた老人らしい口調をそのまましゃべれば老人になるわけじゃない。 コメディとして「ベタベタの老人の演技」を求めるならそういう方向もアリだろうけれど、それならそれでもっと徹底すべき。もっと工夫したほうが良かったと思う。 良かったのはドナドナ。 実は牛のドナドナは、ハイジがTVを通じて電話相談をした番組の司会・みのもんたよしのりの母であったというオチがあるのだけれど、これを知っている状態で舞台を見ると、電話のこちら側でハイジといっしょにTVを覗き込むドナドナが、実に丁寧な表情の演技をしていた。 前回公演とエンディングが違っていたようだが(うろ覚え)、今回の終わり方は前回以上に釈然としなかった。 ドナドナは潰されて肉になったのに、なんで最後に出てくるんだろう? 衣装変えしているから、牛のドナドナその人(その牛?)そのものではないのだろうけれど。 それをとりもどすために超越者上杉謙信に挑むほどに大切なドナドナを失ったのに、ひたすら明るく牛乳を飲み干すハイジに納得がいかなかった。 生演奏のリコーダーでの「ドナドナ」の曲は、それだけで私の「ゾクゾクするツボ」にヒット。微妙にずれたチューニングが良い味出してました。 シナリオ 3 演技 3.5 舞台演出 4 総合 3.5 |
ドラキュラ殺人事件爆男倶楽部ギガプレステージ'99 Final原作:岡嶋二人「十番館の殺人」より 演出:久保朝太郎 とある役者集団に、とある番組への出演依頼が入る。 その番組は、現実に起きた殺人事件を、警察調書などを元に忠実に再現するという企画。今回は十番館での仮装パーティーの最中に起きた事件を再現することになっていた。 ドラキュラ伯爵・狼男・フランケンシュタインと半魚人とへび女と魔女、そして十番館の支配人。役者たちは、実際の事件の時に現場にいた被害者・犯人・証人たちと同じ仮装・扮装をして番組プロデューサー&アシスタントと一緒にリハーサルを始める。 しかし、彼らに困った問題が持ち上がる。 調書に忠実に事件を再現しようとすればするほど、矛盾が出てきてしまうのだ。 他劇団から多くの客演を招いての公演。 発声・活舌などの問題点は無かった。 推理物としてはかなり初歩的な感じはあったけれど、前に戻って読みなおすことができない舞台の上に乗せるにはこれくらいでちょうど良いかな? 単に推理物をやるのではなく、劇中劇というひねりが入っている仕立ては面白かった。 しかし、こっから辛口。 観終わってみると、「この舞台の焦点って何?」と思ってしまった。 脚本レベルで、この舞台を通じて何を訴えあるいは表現したいのかという焦点が定まっていない感じがしたのだ。 別に、はっきりと観客に訴える思想がなければいけないと言っているわけではない。でも、仮にも他者に対して何かを見せようとするならば、「何を見せるか?」という焦点が脚本に必要だと思う。 「推理物の面白さ」を表現したいのか、「劇中劇の面白さ」を表現したいのか、「団員同士の人間関係ややりとりの面白さ」を表現したいのか、それともその全てなのか。それが観ていてわからなかった。 それは逆に言うと、全てが中途半端であったという意味でもある。 再現劇であるために、殺人犯や被害者を演じる団員達が間接的に殺意を表現する関係で、推理物の面白さの大きなポイントである緊迫感が失われる。矛盾が出る度に犯人の設定を変えてリハーサルを繰り返すのだけれど、そのリハーサル自体が劇としての緻密さに欠けるので、劇中劇の面白さも薄い。繰り返されるリハーサルに苛立つ団員もいるが、だからといってそれに絡んで団員達の内面が深く描かれることもない。 単に、面白い小説をちょっとひねって脚本に直しただけという印象なのだ。 まるで、誰かのまとめたあらすじを読んでいるような気分。 純粋に推理物として楽しませるのなら、劇中劇という仕立てはむしろ邪魔であったと思う。劇中劇という仕立てを生かすなら、設定を変更するたびに単なる科白や動きにとどまらない劇がどのように変わるかを楽しませるなど、劇中劇ならではの楽しみを提示したほうが良かったと思う。演技をしていない時の団員達が重要であるならば、心理的背景も含めもっとキャラクターをはっきり立ててそれらを描き出す努力が必要だっただろう。 脚本が、そういう部分に気をつかっていないため、役者か演出がキャラクターを自らのセンスで補完しなければならないのだが、「ほかからいらしたお客様」である客演が多いことも手伝ってかそういうところが大変に甘くなっていた。 元々爆男倶楽部は、演技の緻密さに欠けるというマイナスはあっても、勢いある演出と独自の世界観を持つ脚本でカバーして全体として面白い舞台をつくることの多い劇団だと私は感じていた。 その悪いところが、様々な要素が組み合わされた結果としてクローズアップされてしまった舞台だったと思う。 誰もいない部屋に三々五々と団員が集まり、舞台の上でモンスターの仮装メイクを始めるオープニングはとても面白く、わくわくした。 それだけに、終わってみると「え? これで終わり??」という感じでとてもがっかりさせられてしまったのだ。 ただひたすらに、「もったいないなあ」と思わされる舞台だった。 シナリオ 2 演技 3 舞台演出3.5 総合 3 |
夜明けのバンパイア−不思議荘物語−劇団第二黎明期公演作・演出:シダジュン 日本の片隅のアパート。 ここには何故か、吸血嗜好と夜行性を克服したバンパイアのバンちゃんが住んでいて、今朝も腰に手を当てて夜明けの牛乳を一気飲みしている。 同じアパートに住むのは、プロパー(薬品販売員。一般には製薬会社の病院担当営業販売員)・荻原と、実は他人の心臓を「ぎゅっ」することができる超能力者・サンガツ。 そして、元クラブ歌手のアパートの大家さん。 いつもの朝、朝の挨拶を交わす三人の前に、大家さんがごみ袋を一つ持ってあらわれる。このごみ袋、アパートの敷地内に不法投棄されたものなのだ。 どうやらこのごみの元の持ち主は、定期的にこのアパートにごみを捨てることにしているらしく、アパートの住人も大家さんも、捨てられるたびにごみ袋を開け不燃ごみ・可燃ごみ・資源ごみを分けては捨てなおさなければいけないことに、いい加減我慢も限界といったところだ。 そんなある日、初めて持ち主が特定できる情報を持つごみ・ダイレクトメールが捨てられる。 「よし、着払いでこのごみをこのDMの住所に送ってやろう!」大家さんの号令の下、いそいそとダンボール箱にごみをつめはじめるアパートの住人達。しかし、その準備をしながら、何故か一人大家さんは苛立ち始める。 大家さんの苛立ちのわけは? そして、彼らはどうやってこのごみ禍を防ぐのか? 役者の力量は文句無し。 客演を招いた公演だったが、そういう公演にありがちな役者自身のセンスにまかせただけの大味さが感じられなかったのもマル。 四肢の動きだけにとどまらない演技を上手に使った演出も面白かった。 脚本に込められたいろいろなポイントを役者が、間の使い方、細かい動作、表情のつけ方などの演技を通じて観客に「気づかせて」くれる、そういう感じが心地よい。 暗転の中、実際にごみを床にぶちまける音から次の場が始まるとか、ごみを捨てられないように敷地を見張っているところに誰かが来たことを照明を揺らすことで表現するとかの観せ方も面白かった。 噂話をするシーンの小道具の選び方がナイス。 物語は、派手なキャラクター設定で地味な話を見せるもの。バンパイアという異生物も、超能力者という異端者も、自分の会社での評価のために他人の内臓を手に入れようとする鬼畜な人間も、ごく普通に日常生活を営み、ごく普通に些細な雑事に煩わされている。 「この雰囲気って、なんかに似てるな〜〜」と思っていたのだけれど、家に帰ってから「究極超人あ〜る」(ゆうきまさみ著・小学館刊)という漫画に似ているのだと思い到った。(いや、カルトな説明で済まんす) 大上段に構えたホラ話の設定と日常の物語の組み合わせがもたらす飄々とした雰囲気が、上手く出ていたと思う。 面白かったのは、キャラクター設定が普通なアパート住人ほど、鬼畜度(笑)が高いこと。バンパイアのバンちゃんが一番善良で、普通の人間であるプロパーが一番中身が怖いってのが、奥が深い。 これだけ派手な設定なのに、全然派手なところのない舞台だったけれど、中にあるものが様々に観ている側を刺激してくれる。受け手の楽しみ方にかなり広い幅を持たせた脚本なのかなあと思ったりして。 う〜ん。満足。 シナリオ 5 演技 4.5 舞台演出 5 総合 4.5 |
夏の夜の夢(財)長岡市芸術文化振興財団 リリック野外劇原作:W・シェイクスピア 構成・演出:安田雅弘 時は中世、所はアテネ。 結婚を間近に控えたアテネの領主の元にやってきた臣下・イージーアス。イージーアスが連れてきたのは自分の娘・ハーミアとその恋人・ライサンダー、そして、イージーアスが決めたハーミアの婚約者・ディミートリアス。親の決めた婚約者との結婚を拒否する娘を、領主に裁いてもらおうというのだ。 イージーアスは、ハーミアにディミートリアスと結婚するか、尼となって生涯独身を通すか、両方を拒否して死刑になるかを選べと迫るが、領主は自らの結婚式の日まで、ハーミアに決断の猶予を与えることにしてその場を去る。 残されたハーミアとライサンダーは、駆け落ちを決意し、アテネの森で落ち合う約束をする。 そこにやってきた、ハーミアの婚約者・ディミートリアスに恋する娘であり、ハーミアの友人でもある娘・ヘレナ。 駆け落ちのことをヘレナに告げて去るハーミア達を見送りながら、ヘレナはディミートリアスの心を捉えて離さないハーミアに嫉妬の心を燃やす。そして、嫉妬と憎悪にやけになった彼女は、ディミートリアスに二人の駆け落ちのことを教えに行く。 一方、アテネの森の中では、妖精の王・オーベロンと女王・タイテーニアが夫婦喧嘩の真っ最中。 同じく森の中では、アテネの職人達が、きたる領主の結婚式のための出し物の練習をしていた。 そして、オーベロンに使えるいたずらものの妖精・パック。 役者が揃ったアテネの森で繰り広げられるどたばたコメディ。 3年にわたりやってきた安田雅弘氏の長岡演劇ワークショップの活動を基盤に、リリックホールという劇場が製作した舞台。 脚本は有名なシェイクスピアの、有名な「夏の夜の夢」。役者はオーディションで募集。安田氏の劇団山の手事情社のスタッフに支えられ。なんというか、今まで観てきた地方の小劇団主催の舞台とはかなり毛色の違うものだった。 野外ステージに巨大な櫓を組み、「アテネの森」を日本の縁日に重ねる大胆な演出アイデア。大勢のキャストを使い、歌アリ踊りアリのにぎやかな舞台。 なんていうか、物語だけでなく観客も含めたこのステージ自体が、良くも悪くも(「縁日」というよりは)「祭り」だなあというのが素直な感想。 反響面の少ない野外劇場は、声が通りにくい。そのうえに、シェイクスピアの訳本の古典的言い回しに役者が振りまわされていた感じだったので、ストーリーを知らない観客が最後まで面白く観ることができただろうかと、ちょっと疑問に思った。 古典的言い回しが気になったのは、特に恋愛話がらみのクライマックスのあたり。感情の高ぶりに合わせて早口でしゃべるセリフがものになっていないので、「ああ、一所懸命セリフをそらんじているねえ」という感じを受けてしまった。 面白かったのは衣装。恋愛話がらみの人間に黒を基調とした洋装をさせ、妖精達には浴衣や直垂・巫女装束などの和装をさせ、職人達にはももひき&腹巻。森の外の住人と森の中の住人、その境界の職人を上手く衣装で表現していたと思う。 小道具の選択と使い方など、演出はさすがといった感じ。終盤の演出に大量の花火を使い、後に残った煙がスモークの代りになるなんて視覚的にも面白かったし、花火の火薬の匂いが縁日の演出と重なって祭りの終わりの寂しさやノスタルジーを感じさせてくれたのも面白かった。 ところで、「夏の夜の夢」といえば、演劇大河漫画「ガラスの仮面」(美内すずえ作・白泉社刊)でもネタにされていた脚本である。「ガラスの仮面」の中の劇中劇としてしか「夏の夜の夢」を知らなかった私が、今回の公演を観て思ったのは、「すっきりしない脚本だなあ」ということだったりする。 恋人同士のどたばたが解決した後に、職人達が領主の結婚祝に劇をみせるのだが、そのあたりがどうしても余計に感じる。 「ガラスの仮面」の中では恋人同士のどたばた劇を中心にして後はすぱっとカットしていたのだが、それをすでに知っていたから終盤の話を余計と感じているのではない。それまで観客を引っ張っていた恋人同士のどたばたに決着がついたため、実質上そこで物語が途切れてしまっているのが、純粋に気になったからなのだ。 それ以降は、CDアルバムにおけるボーナストラックというか、宝塚の最後のレビューというか、おまけ的存在だと思う。でも、実際の舞台ではおまけらしい華々しさが無かった。職人達の劇そのものを面白いと感じる為に必要なもの、シェイクスピアがこの戯曲を書いた当時の観客が当たり前に持っていた思想的背景であるとか歴史的背景であるとかが、現代人である私に無いことが原因だと思う。 恋人同士のどたばたには現代にも通じるものがあり、職人達の劇にはそれがなかったということかな? 「ガラスの仮面」でその部分をカットして描いていたのは、美内すずえの慧眼だなあと、舞台とは全然関係ないとこで感心してしまったのだった。 シナリオ2.5 演技 4 舞台演出 5 総合 3.5 |