越佐の劇場 1998

 う〜〜ん。結構、観たな〜〜。
(本当は、シアターゴーイング'98(2月)も観たんだけど、感想まとめてなかったんだよね)
伝言板・越佐の劇場ロビー(直通)では、
みなさまの情報をお待ちしております。

モデルホーム殺人事件

 新潟大学演劇研究部自主公演
 作:鳳いく太

 モデルホーム。
 それは、モデルハウスの生活感のなさを、契約家族をモデルハウスに住ませる
ことで補った建築会社の新しい商品提案のスタイル。
 中流AB型モデルホームの契約家族を軸に、笑いと毒と寂しさを含んだ物語が
展開する。

 素直に、面白かった。
 劇中、舞台の上で炊飯器で本当にごはんを炊いてしまうのだけど、この匂いが
客席にまで漂ってきて。すきっ腹の観客には、さぞ辛かったことでしょう。
(笑)
 客入れを物語の舞台であるモデルホームの居間を実際に観客に歩かせてするな
ど、「劇」以外のところから細やかに気を使った演出は好感が持てる。
 メンバーがある程度の期間で入れ替わってしまうため、どうしても荒削りな部
分が残らざるをえないのが学生演劇ではあるけれど、そういう部分を差し引いて
も、十分に楽しめる作品でした。

                             シナリオ 4
                             演技   4
                             舞台演出 4
                             総合   4


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暗き水、オレンジの灯

 劇団・五十嵐劇場第四回公演
 脚本:正治大典

 ドブ川の向こうに工場の明かりの見える下町に住む男は、犬と話のできる少女
を妹と呼び、一緒に暮らしていた。なにかと男の世話を焼こうとする姉と、「人
さらい」を自称する奇妙な二人組の男達。そして、少女にだけその言葉が理解で
きる犬。
 少女との関係性にしがみついて自己を確かめようとする男と、肉親としての関
係を男に否定される姉の相克の物語……だと、私は理解したのだけど、外れてる
かも知れず。(汗)

 少女役の小川裕子の少女らしさが良かったです。小ネタの切れには冴えが
ありました。独立した建物であるアトリエを持つからこそできるのであろう炎と
水を使った演出や舞台装置そのものを落としてしまう演出も、気持ちがいいくら
い。
 すべてが「こなれて」いて外さない、そのくせきっちり裏切って驚かせてくれ
る。脚本は私には少し難解でしたが、十二分に楽しませてもらえた舞台でした。

 前回公演の「華飾の囚人」と今回の公演を観て、劇団・五十嵐劇場は「個人的
に見逃せない劇団」になりました。台詞によって表現された物語そのものとは違
う次元のものからもたらされる、耽美で淫靡で自虐的な匂いがいい感じです。
 次回公演が今から楽しみです。


 わからなかったこと。男は結局どんな裏切りを少女にしたのでしょうか? 少
女の「お話」が終わってしまったのは男のせいなんでしょうか? 姉は少女の
「お話」の終焉に関与したのでしょうか?
(理解しなくても感じればそれでいいのが演劇とはいえ、気になるものは気にな
るんだよ〜〜)


                             シナリオ 4
                             演技   4
                             舞台演出 5
                             総合  4.5


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Reverse

 劇団二重否定第一回公演
 作:小川咲子

 平凡で退屈な繰り返しである日常に飽きていた大学生・ヒロキは、女友達のお
せっかいで大きなお屋敷のお嬢様の家庭教師をすることになった。
 ちょっと常識のなさそうなメイド達、ひたすらお嬢様が大事な執事、変わり者
のお嬢様に思いこみの激しいお嬢様の婚約者。そして、お屋敷の中の開かずの間
と、そこにいる謎の女と男。
 非日常の中で紡がれる物語の結末は?

 伝えたいことをいかに伝えるか、ということを常に意識しているシナリオには
好感が持てました。シナリオ自体がそれ自体で十分にエンターテイメントになっ
ているように思います。(でも、セリフに頼り過ぎている状態と紙一重かも)
 プロジェクターでビデオを映したり絵を描いたり、という会場の白板を利用し
た演出も面白かった。
 役者陣で光っていたのがお嬢様役の水沢麻衣、とにかくツボを外さない。
お嬢様の婚約者役の菅田智雄は、ちょっとセリフが回らなかった所も多かっ
たけれど、それ以上にセンスの良さが目立ちました。動きやセリフの少ない役を
やらせたらどうなるか、興味があります。
 個人的に気になったのは、ヒロキや女友達やヒロキが惹かれている女性によ
る、日常の演じ方。舞台の上においては演技によって記号化され再構築された日
常でなければ「日常らしさ」というのは出ないと思います。演技らしいわざとら
しさを排そうとしたら、セリフ棒読みのような違和感が出てきた……という感じ
を受けました。


 直接芝居には関係のないことなのですが、劇の中の重要な小道具・PHSの使
い方がすごく現代的で、それが逆に現代の若者の持つ病の根深さを感じさせまし
た。
 一日に何度も、さして重要だとは思えない内容の電話やPメールを繰り返す姿
は、関係性の希薄さの不安を数で紛らわせようと、良く知らない友達の写真やプ
リクラを持ち歩いたりする女子高生に似ています。
 側に居るのに、今まで直接話をしていたのに、PHSを介して会話を始めるラ
ストシーンは、日常への回帰を意味しているのだとわかってはいても、私にはひ
どく寂しいものに映りました。


 気になるアラがないわけではないけれど、それ以上に魅力的な舞台でした。
 次回にも期待。


                             シナリオ4.5
                             演技   3
                             舞台演出3.5
                             総合   4


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死人と踊れ

   ・・・ゾンビがくるりと輪を描いた
 劇団カタコンベ第32回公演
 作:戸中井三太

 男が二人、パンG刑事とグラタン刑事。二人は事件を求め夜を彷徨う。
 その男達が見つけた家の灯りの中には、女が一人。
 観客と舞台のルールを弄びながら、正気と狂気が交錯する物語。

 真っ黒な舞台装置と白いチョークを使った演出が印象的。
 シナリオの仕立ても巧妙。
 強いて言えば、早い口調で叫ぶ感情のほとばしるようなシーンで、ほんの少しセリフの聞き取り辛さがあったのが難か?
 とにかく、谷藤幹枝の演技が鮮烈。静かな狂気の表現も良いのですが、終盤の絶望の表情には胸を突かれました。
 正治大典の見せる序盤のドタバタ刑事から、中盤、終盤のキャラクターの変化の演じ分けも良かったです。

 ’98年9月12日(土)に長岡リリックホールにて同作品の上演が予定されている。
 また観に行きたい。


 '99年3月の東京公演が終わったので、脚本についてのネタバレ内容を追記します。

 物語の序盤、ステージに現れる刑事二人。
 先輩刑事は、事件がまだ起きていないのに張り込みをすると必ず犯人が現れるのだと後輩刑事に主張する。その理由は、「そこに観客がいるから」。刑事・張り込み・お客さんの三角形が存在すると、そこに犯人が現れるのだと言うのだ。
 これはまあなんというか、本来「それを言っちゃあ、おしまいよ」な物語におけるお約束ですな。そういうものを役者自ら口にすることによって、観客と演ずる側で舞台上の世界を共有する、一体感を感じさせる、そういうやり方というのは決して珍しい手法ではないと思う。
 やがて物語は進み、終盤、実は刑事達は刑事ではなく、精神病院から逃げ出してきた人殺しの狂人達なのだと判明する。
 自分の狂気を認められない先輩刑事は、観客を指さす。
 これは芝居だ、ほら、観客がいるだろう? ここに観客がいて、俺達は観客の前で刑事をやっているんだ。
 後輩刑事(刑事ではないが)は、首を振る。
 僕にはもう、観客が見えないんです。
 序盤に物語を共有したはずの観客は、終盤で登場人物の狂気として物語の中に取り込まれてしまうのだ。

 観客と舞台のルールをあからさまに認めたふりをしながら、観客自身の存在を翻弄してしまうこの脚本。
 私はものすごく好きです。



                             シナリオ4.5
                             演技  4.5
                             舞台演出 5
                             総合  4.5


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マカロニ・ルンバ

 デン吾朗一座 シアターゴーイング’981/2 参加作品
 作:吉沢文雄

 物語は童話・ピノキオのエンディングから始まる。「ピノキオはちゃんとした人間になりました。めでたしめでたし」だったはずなのに、エンディングのその後のピノキオの世界が消滅の危機を迎えてしまったのだ。
 パニックを起こすピノキオと妖精の前に現れるナゾの男。彼は、作品を楽しんでくれる人がいなくなってしまうから、世界が崩壊するのだと言う。
 自らの住む世界を守るため、ピノキオは自分の物語の続編を作ろうとする。ちゃんとした人間になった、嘘をついても鼻の伸びなくなった自分にふさわしい「その後」を探すピノキオに、男は「刑事」がふさわしいと言う。
 そしてピノキオは、刑事になるために「太陽にほえろ」のその後の世界に足を踏み入れた......
(ん〜、ちと違うか? まあいいや)

 とにかく、観客を楽しませようという姿勢と、舞台全体に溢れるパワーがすごい。
 すでに「お約束」の歌謡ショーやダンスを、楽しみにしている固定ファンもいるようだ。
 反面、演劇としては基礎的な部分に問題がある。「滑舌」「発声」「ボディコントロール」。肝心なセリフが聞き取れないのは、せっかくのシナリオを殺してしまう。
 大胆な舞台演出・小ネタの利いたシナリオは良いのだけれど、演技者のレベルのバラツキがセリフや動きのリズム、ひいては芝居全体のテンポを壊しているように思える。音楽や踊りを組み入れた舞台なのにと、ちょっと矛盾を感じる。リズムのあるセリフは耳に入りやすいし、聞き取りやすい。リズムのある動きは、観ていて心地よい。リズムがあってこそ、それを外す間が生きてくるわけだ。そこを意識するだけで今よりももっと、観客がすんなり観ることのできる舞台になると思う。
 ちょっと、宝の持ち腐れっぽくって、もったいない感じ。
 良かったのは、「妖精」役の田中みゆきと「天才プロデューサー・オカダ」役の佐藤敦。役柄の演じ易さもあるだろうけれど、きちんと見せるべきところで見せる、見せ方を心得ている感じが心地よい。

 結構キツイことを書いているけれど、この「デン吾朗一座」に否定的なわけじゃないんですよ。
 地元で多くの出演者を得て、身内を通じて地域に密着して、地域に支えられる。技術的に拙くても、こういうパフォーマンス集団というのもアリかなあと、思ったりしてます。



                             シナリオ3.5
                             演技   2
                             舞台演出 4
                             総合   3


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彼女に与えるべきではないエサのいくつか

 最強演劇プロジェクトチーム シアターゴーイング’981/2 参加作品
 脚本:戸中井三太

 新潟の主な劇団のスタッフがよってたかって作った、高橋景子・鈴木ノリコ出演の二人芝居。

 動物園のは虫類担当飼育係のノリコと大型動物担当飼育係のケイコは昔からの友人。
 ふとしたきっかけで始まった言い合いで、二人の間に過去、何かがあったらしい事がわかる。どうやら、ケイコの大切な人(&動物)を、決まってノリコが奪って(?)しまうらしい。 今回も、ケイコが他には内緒でつき合っていたつもりの男が、ノリコとデートの約束をしていたことから大騒ぎ。なんやかやと過去を引き合いにノリコに嫌味を言う。
 ケイコが去った後、ニシキヘビを相手にケイコから奪ってしまった一番のモノについて、ノリコは語り始める。どうやら、「ヤマちゃん」という男性らしい。
 話が進むと、他の人(や動物)に関しては、てんで罪悪感を持っていないどころか、忘れてさえいたノリコが、「ヤマちゃん」に関してはケイコに負い目を持っているらしいことがわかる。
 ケイコとノリコと「ヤマちゃん」の間に、果たしてどんな関係があったのか、観客の興味を引っ張りながら、物語は女二人の奇妙な友情をおもしろ悲しく描き出す。

 演者の基礎的な力がしっかりしていると、舞台というのはこんなにも観やすくなるのかと、改めて感じた。
 派手な照明も、舞台演出もない。きっちり客を引っ張り、驚かせることのできる脚本と、それを語る確かな演技と、それを生かす照明と演出。無駄のないシンプルな世界。
 ああ、満足。



                             シナリオ 4
                             演技   5
                             舞台演出 5
                             総合   5


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死人と踊れ(長岡公演)

   ・・・ゾンビがくるりと輪を描いた
 劇団カタコンベ シアターゴーイング’981/2 参加作品
 作:戸中井三太

 前回カタコンベ公演の演目が、長岡のリリックホールスタジオで上演された。

 既に筋立てを知っている状態で観ると、一つ一つのシーンにちりばめられた、前回、なんとなく流して観てしまっていた「言葉ではない演技の伏線」が理解できる。それが、本当に細やかで、改めて感心してしまった。
 観客と舞台のお約束を前提にそれを裏切り、観客自体をフィクションとして登場人物の狂気に組み込んでしまう逆転のシナリオは、この演技によって作り出されたリアリティあってこそ生きるのだと納得させられる。


 舞台装置の都合で、アトリエ公演では壁まで大胆に使った演出が、今回は無かったのが寂しい。
 床に文字を描く演出は、フラットな客席のため思ったような効果が出せなかったかも。その文字の意味も重要な伏線なので、これが客に伝わらないというのは、辛い所。
 かといって、客席に段差のある大きなシアターの方でやったら良かったかというと、そうでもない。この作品では、観客と舞台の近さというのが重要だから。
 難しいところだ。



                             シナリオ4.5
                             演技   5
                             舞台演出 5
                             総合   5


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出口なし!

 劇団近所迷惑 第12回さわらび演劇祭参加作品
 作:三谷幸喜

 精神科の病院に呼び出された、演劇青年。医師に言われるまま、いきなり、ハイテンションで「暗い男」「乱暴な男」「明るい男」を演じる。どうやら何かのオーディションらしい。殆ど宴会芸レベルなのに、彼は合格する。
 彼の役割は、精神鑑定の資格を審査される別の精神科医の前で、現実に存在した多重人格の男を演じることだと、医師は言う。偽りの多重人格を、見抜けるかどうかというテストなのだ。
 資料を渡された青年は、しかし、資料に目も通さず、医師のいないスキに研修医の女医を口説き始める。青年の口説き文句に、不意にいとおしげな表情を見せ、慌ててそれを隠す研修医。何かがあるのだと予感させる。
 そうこうしていると、テストを受ける精神科医・神宮の患者が現れる。治療の一環として神宮医師の手伝いをしているという気弱そうな男は、神宮への愚痴をこぼしながら去ったが、やがて現れた神宮は、その男にそっくりだった。
 実は、神宮は「自分が精神科医だと思いこんでいる人格」を持つ多重人格者で、同じ症状を持つ患者同士を会わせることで自分の病気を自覚させる「スネーク・ホール・セラピー」のため、多重人格を演じる青年が必要なのだと、医師は説明する。
 しかし、真実は......?

 思わぬ所で見つけた実力派劇団。
 今回出ていた役者4人全員、ハズレ無し。
 神宮役の、多重人格の演じ方はもちろん良い。
 しかし、圧巻は青年の演技。
 実は青年も多重人格だったというオチなのだが、「演劇青年」「演劇青年が演じている多重人格」「本当に表出した多重人格」の演じわけが、それは見事。
 なんか、こんなに少ない観客の前で演じているのがもったいないくらいの作品でした。

 物語の「再び現出した演劇青年の多重人格を、催眠療法で以前と同じように封じ込める」というエンディングは嫌いだったりしますが、それはさておき。
 個人的に、凄く気になったのが、最後のラブシーンの音楽。
 演劇青年に閉じこめられていたオリジナルの暗い人格は、これからまた催眠療法で眠らされてしまう。オリジナルの恋人で、彼の多重人格の治療のために精神科医を志した研修医の女性との、切ない別れのシーン。
 暗めのステージ、二人を照らし出すスポットライト。そして、BGMはオルゴールのメロディ。
 定番といえば定番の演出なのだけど、なにか、凄い違和感があった。「おら、良いシーンだぞ、感動しろ!」的なあざとさを、オルゴールの音に感じてしまったのだ。(あくまで、個人的な感覚だよ)
 記憶をたどってみると、他のシーンでは、あまり音楽が使われていなかったように思うが、そのためなのだろうか。オルゴールの音色も曲も、あまりにも唐突で浮いていたように感じる。



                             シナリオ 4
                             演技   5
                             舞台演出 4
                             総合   4


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飛びます3

 塩沢商工演劇部 第12回さわらび演劇祭参加作品
 作:斉藤泰弘

「飛びます3」の3は3乗の3です。「とびますとびますとびます」と読むのですな。

 離陸、飛行、着陸、全フライト行程全自動の新型ジャンボジェット機のテストフライトに同乗することになった、スチュワーデス3人。全自動のためにやることがなくなって、マンガや果てはプレイステーションとソフトまでコックピットに持ち込む機長。そして、「お客に便利で、地球に優しい」という会社のモットーをプログラミングされた、飛行機をコントロールする新型コンピューター。
 果たしてこのテスト飛行は無事に済むのか?

 どうも、なんつ〜か。
 高校生の仲良し部活動にマジで文句たれるのもどうかと思うのですが、やってる本人達が本気で演劇やってんなら酷評も必要かなあとか、でも、どうせ高校生やその指導者は、こんなHomePage観てねえやとか思ったりして、はてさて、どおしましょ〜?って感じ〜。
 一応、オブラートにくるんで(笑)、酷評の方も書いておきます。

 一言で言えば、学芸会。
 セリフが入っていないのは、演劇部にしては......。発声・滑舌が悪いのも......。セリフが無い時に演技を忘れているのも......。
 スチュワーデス3人は、「先輩」「アナウンスの上手な中堅」「アナウンスの下手な新人」という役所なのだけど、役者の実力が「先輩役」>「新人役」>>「中堅役」という感じだったので、「う〜ん」といった感じ。特に、一番実力が無い(セリフがまともに入っていない)人間に、ラストの締めのセリフを言わせるのは論外。実力相応のキャスティングをすれば、いくらでも誤魔化しようがあるのに、部としての全体の実力の割に、劇全体の評価が下がってしまうのが残念。
 衣装も、上半身は良いのだけど、下半身まで気を回して欲しい。いや、お金が無いからというのはわかるんだけどね、スッチーのスカート&靴がバラバラって、すごく違和感ある。スッチーの制服にスリット入りのミニは似つかわしくないし、流行りの高底のハイヒールをはくくらいなら、ローファーでもはいていた方がずっと「らしい」。
 金がなければアイデアでフォローすればいい、一工夫で見栄えはよくなるはずだ。


 ボロクソ書いているけど、良いトコロもあった。
 先輩役は発声・滑舌も良く、演技も芝居勘の良さを感じさせた。マッチ売りの少女(何故マッチ売りの少女が出てくるかというのはナイショだ)役は、発声に難があるものの、独自の雰囲気を持っていて面白みがあった。
 将来に期待。


 高校部活動のレベルって、指導者に左右されるんですよね。ちゃんとした指導者がいたことがない部というのは、(それが何部であっても)どうしても基礎がおろそかになってしまう。
 んで、たかが課外活動のために、学校側が良い指導者を与えてやる義理はないしねえ。
 はああ。



                             シナリオ 3
                             演技   1
                             舞台演出 2
                             総合   2


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弁論大会

 劇団ひらがな シアターゴーイング’981/2 参加作品

 シアターを使わずホールのロビーでゲリラ的に行ったミニ芝居。
 妄想系イッちゃってる人々の青年の主張。
 自分の頭の中にカンガルーが住んでいてアドバイスをくれると思っている女、自分の溜め息から生まれた雲と友達だと言う女の子、パソコンの中には日本を狙うこびとが住んでいると主張する男。それぞれが大まじめに「青年の主張」をする。

 人を笑わせるというのがテーマなら、上々のシナリオ。
 主張をしている役者に限れば、演技も良い。
 しかし、スタッフが入れるヤジも含めての作品なのだが、そのヤジが不自然で「内輪ウケを延々見せられている」ような不快感がある。面白くてセンスの良いヤジって、 本当はすごく難しいのだけど、そういうものが観客に埋没したスタッフの中から出てこそ、面白くなるネタだと思う。
 演出のアイデアは良いのだけれど、こなし切れていない感じ。

「Dreams」も含め、劇団ひらがなのシアターゴーイングの演目は2日間で2回ずつ上演された。
 1日目はどちらもへなへなだったが、2日目は色々と工夫をしていた。
 ずっとすっきりしていた。



                             シナリオ 4
                             演技   3
                             舞台演出 2
                             総合   3


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センチメンタル・アマレット・ポジティブ

 ひとパック小賭的 シアターゴーイング’981/2 参加作品
 作:前川麻子

 開演前、舞台監督の前説があった。
 飲食喫煙の禁止等の、おきまりの前説の後、「近頃、年のせいか、長い間劇を観ているとお尻が痛くなる」という話から観客を立たせて首を回したり伸びをさせたりの体操。前日(シアターゴーイングの中日)一日でまさにお尻の痛くなる思いをした私なぞ、「なんて観客思いの前説じゃい」とありがたく身体をほぐさせてもらう。椅子に座って顔を後ろに向けて左右に身体をひねるストレッチをしておしまい。
 さあ、身体がリラックスしたところで、開演。

 イチ子、ニ子、サン子は、女子校に通う中学生。
 朝は一緒に学校に行き、授業を受け、お昼は膝をつき合わせてお弁当を食べ、掃除当番をこなし、放課後はファーストフードショップや小物屋やブティックや本屋を巡り、その間ひたすらおしゃべり! おしゃべりの内容は恋の話。サン子は無職の男と貧しい交際、ニ子はハゲと清い不倫関係、そして実はレズのイチ子は秘めたる片思い。
 レズなんてロクな死に方しないと主張するニ子とサン子が、男と恋をしろとイチ子にけしかけていた時、イチ子を好きだと言う男の子・シローが現れる。
 思いこみが激しく、でも純粋なシローをきっかけに、三人の何かが微妙に変化して行く。

 よくまあ、これほど役者と劇団の色に合った脚本を選んだものだと思う。
 序盤の女子中学生の日常を、これほどハイテンションに、パワフルに、完璧に演じられるのは、新潟ではこの劇団だけなのではないかとさえ思う。めまぐるしい場面転換をマイムだけでこなす役者の力量もすさまじい。
 しかし、なにより、リリックホール第一スタジオ全体を舞台にした演出。客席の花道に面した所に4カ所の予約席を作ってあったので、そこに役者を座らせる演出までは予測していました。けれどまさか、クライマックスを、観客の真後ろで演じるとは思いませんでした。(そう、あの前説は、この演出のための伏線だったのですな)
 観客の背後で、しかもセリフの無い長い演技だけのシーンを演じさせる。もしも、観客が振り向いてくれなかったら、無言のシーンの前のやりとりを「声だけの演技」なのだと勘違いして背後で演技していることに気づかなかったら、一番肝心なシーンを観損ねてしまう。(事実、振り向いていない人もいた)そんな大きなリスクを承知した上で、この演出を選択した大胆さは、凄いです。

 シナリオに関しては、好みが別れる所。
 様々ないきさつの結果、最終的に三人の少女達は一緒に自殺してしまう。高い所、おそらくビルの上で、ゆっくりと最初で最後の口づけを交わしあい、手をつないで笑いながら、元気に飛び降りる。(この一連のシーンが観客の背後で演じられたわけだ)
 クライマックスでの女子中学生達の選択を「キャラクターの行動の必然」とは認めても、納得はしない人はいるだろう。明るく、あっけらかんと逝ってしまう少女達に、不満さえ覚えるかもしれない。
 しかし、かつて少女であった女性の大部分は、このシナリオに納得するのではないかと、私は思う。
 密接な関係を持つ少女達と、彼女達の共有する世界。その世界を手放すということは、少女である自分を殺し、大人になるという残酷さを持っている。
 少女達は、少女であり続けるために、自分達だけの世界に飛び立った。自分達の心のどこかを血を流しながら削り捨てて大人になることよりも、自分達以外を切り捨てて別の世界に行く方が、自分自身にはずっと楽なのだ。だからこそ、彼女達はあれほど明るく死んで行ける。彼女達にとってそれは、理想の世界への旅立ちなのだから。
 いずれにせよ、一緒に死んでくれる、世界を共有している仲間がいて初めてできることなのだが。
 少女であり続けたかった、でも、一緒にそうであり続ける仲間も持てず、一人で時を止める事もできず、大人になってしまった女達は、永遠を手に入れた彼女達をうらやみながら、自分で殺してしまった少女の自分に思いを馳せるだろう。



                             シナリオ 5
                             演技   5
                             舞台演出 5
                             総合   5


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Dreams

 劇団ひらがな シアターゴーイング’981/2 参加作品

 屋外のミニステージで上演された。
 2回目の公演を観て、やっと物語が理解できた。

 宇宙船の故障で地球に不時着してしまった宇宙人達6人。
 大気成分のアレルギーからか、それぞれ全身の肌が一つの色に染まってしまった。赤、ピンク、オレンジ、青、紫、緑。緑に染まった男は、目を覚まさず眠り続けている。
 ごちゃごちゃやっているうちに、紫色に染まった信心深い女が、「みんな死ぬ」とのお告げを受ける。その後、ピンクの女が地球人として子を成し生活しているヴィジョンも観る。
 不安と混乱の中、彼らの肌の色に変化が現れる。地球人の肌と同じ色の斑点が現れ始めるのだ。肌の色の変化とともに、次々と倒れる彼ら。
 彼ら全てが意識を失うと、緑の肌の男が目覚める。
 緑の男が手を触れると、彼らは力を取り戻し、立ち上がる。
 緑の男は「大丈夫、僕たちは必要とされているのだから」(うろ覚え)ということを言って、先に立って歩き出す。全員が立ち去って、エンド。

 どうやら、宇宙人達の性格は、色に象徴されているらしい。
 赤の男は行動力と勇気があるし、ピンクの女は何かといっては好きな青の男にまとわりつく、青の男はやたら冷静にそれをかわし、オレンジの女はやたら元気いっぱいで素直、紫の女は占いやお祈りをしてばかり。緑の男は穏やかなもの言いをしながら最後に彼らを癒している。
 彼らが必要とされているというのは、「勇気」「愛」「客観性」「元気」「信仰」「癒し」などキャラクターによって象徴されている要素が、現代の人間社会に必要とされているという暗喩なのだろう。


 屋外で演じるにふさわしい作品ではあるけれど、役者の平均的な実力から言うと少し辛かったかと思う。
 多少の反響面はあるとはいえ、開かれた空間で生活雑音の入る屋外では、ハンパな発声ではセリフが客席まで届かないし、たとえ届いても、芝居に集中させるだけの力を発揮できない。シナリオがぐいぐい引きつけるような力を持っていればまだしもだが......シナリオ・演者共に力不足。

 クロコを使う演出のアイデアや、全身に単色を塗りたくったメイクと真っ白で奇抜な衣装デザインは良い。

 目立ったのは、山田亜矢子と長谷川沙喜。やはり、必要な時にきちんと客の目を引ける演技ができるというのがいい。


 多くの劇団を観ていると、役者に力量の差がある時、シナリオからして派手でキャラクターに特徴がある(「キャラクターが立っている」と漫画の世界では表現するが)動きの多い役に、演技力の高い役者を当てることが多いように見受けられる。純粋に、そういうキャラクターはメインキャラでありセリフが多いため、多いセリフもきちんと入る実力者に回ってしまうという事情もあるのかもしれない。
 しかし、動きが多くキャラクターが立っている役ほど演じやすく、動きの少ない役ほど演じ難いという事実がある。
 むしろ、こういう実力を持つ役者を、動きの少ない難しい役に回した方が、芝居全体のレベルが上がるのではないかと思う。

 魅力的な役者もいるので、役者全体の地力が上がってくると面白くなりそうな劇団。
 今後に期待ということで。



                             シナリオ 2
                             演技   2
                             舞台演出 4
                             総合   2


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ホテル・プリンアラモード

 やりたいときに一発屋 シアターゴーイング’981/2 参加作品
 作:中嶋かねまさ

 演出や演技や音楽やダンスは、文句のつけようが無いくらいハイレベル。
 一発屋の公演を観たのはこれが初めてなのだけど、劇中のダンスが観るに耐えるレベルに達していたのは、今まで私が観たいくつかの新潟の劇団の中ではこの劇団が初めて。そうか、地方劇団でも、これだけのことができるのかと感動。

 物語をここで書くのは難しい。
 要所要所でプロジェクター(?)を使った映像と音楽と踊りとを駆使し、色んな映画のクライマックスだけを集めたようなシーンが断片的に演じられる。
 形としては、アニメやコミックや小説を題材にした同人作品、しかも同じ元作品の同人誌群の中から良い作品を選んで収録した同人誌アンソロジーに似ている。
 人間関係や物語全体の筋を作品以外のところに棚上げし、ただ、美味しいシーンだけをつまみ食いする、描いている人間にとっては究極の手抜き、原作者にとっては「そんなんで金儲けすんなよ、ずりぃぞ、ちくしょ〜」なのが、同人誌アンソロジー。
 結果として似たものになったのか、むしろそれらへのアンチテーゼなのか。真意は私にはわからない。

 気になったことが一点。
 全編を通じて描こうとするものから見れば必然なのだけど、最初っから最後までクライマックスなので、観ている方が疲れるというか慣れるというかダレるというか。色んなシーンの、シーンごとのトーンの違いでそこらへんをカバーしようとしているのは感じるのだけどね。


 衣装替えの後からのエンディングの流れは、音楽、照明、衣装、演技、演出、観客に与えられるモノ全てが洗練されていて鮮烈で完全で、さすがの一言。



                             シナリオ 3
                             演技   4
                             舞台演出 5
                             総合  3.5


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錨をあげろ! 旅立ちは月夜がいい

 劇団・五十嵐劇場 第五回公演
 脚本:安達修子

 少女漫画家の男。彼にはナルコレプシー(日本名は突発性睡眠症で良かったのかな?)という持病がある。本人の意思に関わらず突然に深い睡眠状態に陥ってしまう男は、〆切を前にして友人にアシスタントを依頼する。
 アシスタントが、異性でありながら女の視点から少女漫画を描く漫画家に、どうしてこのような作品を描けるのかと問うと、男は持病からもたらされる眠りの中で見る夢の話を始める。その夢の中には、決まって一人の女が出てくるのだと。
 男にとって、その女とは一体なんなのか?
 男がたった一つ、仕事としてではなく描いている、少女漫画ではない漫画。男が男として描いたその物語と、男にとっての現実世界はやがて混乱し、融合しはじめる。
 男の物語の果てには何があるのか......?

 劇団・五十嵐劇場の公演を観るのは、これが3回目。
 炎と水を使った演出や、「ここまでやるか?」な屋台崩しは健在どころか、さらに輪がかかったスゴさ。これだけでも観る価値アリと言ったら怒られるかな?
 過去2作と脚本家は変わったが、妖しさ、内面的グロさ(両方とも、劇団のプラスの個性としてのそれ)などの作品の傾向は継承されていた。しかし、そこはかとない淫靡さが、いまひとつなくなってしまっているような気がする。

 今回の公演は、体制の変化や公演中止の影響か、とにかく消化不良の印象が強い。
 長台詞をモノにしていないトコロが多く、とにかく聞き取り辛かった。適切なイントネーションとアクセントとリズム、観客に意味を適切に伝えるための努力と工夫が足りない言葉は意味が取りにくく、そのためにシナリオの肝心な台詞が理解できないという基本的問題を招いた。
 演技の点で言えば、序盤のアシスタントと男のコミカルなやり取りのぎこちなさが、気になった。素人の漫才を聞いているような感じ。これも、煮詰め方が足りないせいだろうか?
 演出が良いため、視覚的に鮮烈なシーンが随所にある。それだけに、全体に芯を通しているはずの物語が伝わらないと、一つ一つの印象的な「光景」を単につなぎ合わせたような、細切れな舞台という感じを受ける。

 今まで観た劇団・五十嵐劇場の作品では、役者に明確な役割分担があったように思う。
 体制の変化に伴いそれが崩れたことにより、今まで要求されなかった性質の演技を要求されるようになった各役者の戸惑いが、時間の無さとあいまって、結果として今回の公演の消化不良に繋がったように見える。
 個人的には、これをきっかけに新しい一面が劇団・五十嵐劇場の舞台に表れるようになってくれれば嬉しいと思っている。



                             シナリオ 3
                             演技   3
                             舞台演出 5
                             総合  3.5


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日向のかたつむり達

 幸せ向上委員会公演
 作:じゅん

 柏崎の劇団同志のユニットによる公演。

 かたつむりが店のマークのBar・マイマイでは、今日も美人のママと体育会系オカマの菊が働いている。
 そこに、久しぶりにやってきた常連客・春(しゅん)と舞子。二人は恋人同士なのだが、菊は春に横恋慕している。春にまとわりつき、舞子にからむ菊をあしらいながら、暗い表情を見せる二人。事情を聞くと、舞子の父親に交際を反対されていると言う。
 菊が以前努めていた店の店員二人と、ママと菊によってひそかに構成されている「幸せ向上委員会」は、この二人を応援して「幸せ」にしてあげようと工作しはじめる。
 まあ、元々が「とにかく娘が自分から離れるのが嫌」でダダをこねていただけの父親なので、ゴタゴタの後、意外とすんなり二人の交際を認めてくれたが、それだけでは済まなかった。気の早い母親のお陰で、いきなり結婚話にまで進展してしまったのだ。
 そして、ここに問題が一つ。
 実は、春は女なので、戸籍上の結婚をすることができないのだった。
 どうしようかと悩む春と舞子。
 それを見かねた菊は、春と自分の戸籍を交換することを提案する。


 シナリオを通じて感じられる優しさが心地よい作品。
 演技については、発声がBGMに負けていたり、イントネーションやアクセントが変だったり、セリフや動きにめりはり(リズム)がなかったり、上半身だけで演技している役者が多いため棒立ちの印象を受けたりと、まあ、難も多かった。しかし、滑舌がしっかりしているため、シナリオの内容を伝えることはできている。
 幸せ向上委員会の一員「海」や、舞子の「お父さん」など、目を引く役者もいたので、今後の柏崎の劇団が楽しみになったりした。
 少々長い感じもしたが、ストーリーの仕立ても良く、観客を飽きさせない工夫も凝らしてあって、全体としては十分に楽しませてもらった。


 ただし、気になった事が一つ。
 メインキャラクターであり、その心情が物語を進めてくれる猿回しでもあるオカマの菊のキャラクターが、シナリオ段階できちんと「立って」いないように見えるのだ。

 一口に、オカマと言っても、その実体は様々だ。
 単に女装が好きなだけで男として女が好きな女装者。女装して女らしく振る舞うが実は男として男が好きな女装ゲイ。性転換手術をしてでも女として生きたいと願い女として男が好きな性同一性障害の異性愛者。
「異性が好きか、同性が好きか、両方イケるか」という性指向の軸と、「自分の精神の性は肉体の性と一致していると思うか、一致していないと思うか」という性自認の軸(性自認が自分の肉体の性と一致しないことを、性同一性障害と言う)。さらに趣味・フェティシズムなどの性嗜好としての女装が絡むので、「オカマ」を描くのは本当に難しい。

 物語のネタバラシをしてしまうと、実はもうひとつ、「戸籍の交換を申し出た菊は、実はすでに女性と結婚していた」という重要な設定がある。菊の妻は、入籍した3日後にゴリラの研究のためにアフリカの奥地に旅立ち、以来半年間、音信不通なのだ。
 すでに結婚している菊が春と戸籍を交換するためには、妻と離婚しなければならない。「菊をそこまで犠牲にしてまで、結婚したくない」と言う春達に、菊はいつ帰るとも判らない妻を待つのに疲れたのだと告白し、一時は話がまとまりかける。
 そんな時、菊の元に妻からの手紙が届く。
 連絡一つできないジャングルの奥地での研究を終え、一週間後にやっと帰れるのだと伝える手紙には、菊への変わらぬ愛が込められていた。
 結局、菊の幸せを犠牲にして戸籍交換をするより、ありのままの自分達を説明して、理解してもらうように努力することを春と舞子が誓い、エンディングを迎える。

 この作品では、もう一人の性同一性障害のキャラクター・春は、男として舞子を愛している。春を演じる役者は男であり、一片の女らしさも感じさせない。
 なのに、男としての春に本気でアプローチしている菊が、「愛しの旦那様」と手紙に書く程に自分を男扱いしている普通の女性と結婚していて、しかも彼女を愛している。彼女と結婚した時には菊はすでにオカマだったのにだ。
 また、あるシーンで「ずっと女になりたかった」と言いながら、別のシーンではまるっきり男として「オレは......だ」などという言葉遣いで会話をしたりする。いくら男時代を知っている幼なじみとの会話だとしても、不自然すぎる。
 シナリオ段階での設定の甘さのため、男である菊役はどういう「オカマ」を演じれば良いのか掴みきれず、結果、舞台の上には、「オカマのふりをしている男」と「オカマのふりをやめている男」しか存在しないことになってしまっていた。
 これでは、自分を犠牲にしてまで春のために行動しようとした菊の恋心も、戸籍交換の条件に持ち出した「そのかわりに自分と結婚式のマネ事をしてくれ」という願いのいじらしさも、まるでリアリティが無くなってしまう。
 まるっきり男である菊が、まるっきり男である春に固執するのに違和感を覚えてしまうのだ。


 雌雄同体の「かたつむり」をタイトルに持ってきているのだから、菊がオカマなのも春が女なのもそれなりの意図があってのことではないかと類推するのだが、その割には少々アラが目立ってしまったというのが、私の感想だ。
 もっとも、そういう方面の予備知識が妙にある(笑)私だから感じたことなのかもしれない。そういう知識のない人は、果たしてどう観たのであろうか?


 散々書いてきたが、舞台全体から伝えられるモノに関しては、すんなりと素直にこちらに伝わってきて、観終わった後には、ほっと心地よい優しい気分にさせられた。
 これは脚本家の個性に寄る所が大きいのではないかと思う。次作もできれば観たいと思う。



                             シナリオ 4
                             演技   3
                             舞台演出3.5
                             総合  3.5


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ナイフ・アンド・ジュリエット

 劇団サン・フェイス旗揚げ公演
 作:佐藤広樹

 夏休み最後の一日、名門高校の体育教師である近藤の元に、電話が一本。同校の生徒同士の不純異性交遊と、その結果の女子生徒の妊娠が発覚したという知らせだった。
 妊娠した女子生徒の名は、江藤ジュリ。両親は離婚しており、現在は水商売の母親と二人暮らし。
 相手の男子生徒の名は、山田露澪(ロミオ)。祖父は元総理大臣で、現在も政界のフィクサーである。
 近藤が学校に駆けつけるまでの間に開かれた職員会議で校長から、ジュリは退学、露澪は公式には病欠扱いの停学3日と反省文という、極めて不公平な処分が通達される。会議に出席していた女性教師二人は一時は反対したが、教頭に弱みをつつかれて結局は押さえ込まれてしまう。
 そんな教師達に反抗した露澪は、右手にナイフを、左手にジュリの手を握りしめて逃亡を計るが、やっと学校に到着した近藤と鉢合わせ、近藤を刺してしまう。逃亡に失敗した二人は、二人を追う近藤と、たまたま別件の取材で来ていた新聞記者と一緒に、演劇部の部室に立てこもることになる。
 オートロックの校舎は、朝が来るまでたった一カ所、教師が押さえている職員用出入り口しか使えない。朝を待って逃げる、もしも駄目ならジュリ(とお腹の子供)と一緒に青酸カリをあおって死ぬのだと言う露澪。
 果たして、この長い夜に、どんな朝が訪れるのか?


「え? 本当に、これが旗揚げ公演?」と聞きたくなるほど、全体的に役者のレベルが高い。「新聞記者」登場の場面の早いセリフ回しで聞き取りにくい所があったが、それ以外に舞台に感情移入するのに支障となるような訓練不足は一切感じなかった。
 後で確認したパンフに「演劇は初めて」と書いている人も多いところを見ると、よほどの稽古を積んだに違いないと思う。

 ことに役者として魅力的だったのは、信仰している宗教の教祖が逮捕されて以来イっちゃってる教師「橋本」。職員会議のシーンが始まった最初から、きっちり役に入ってあぶない目を彷徨わせる姿はマジで怖い。さらに、「実はそれは演技で、学校の不正を調査しに来た調査官だった」という設定が明らかにされて以降は、優秀でクールな調査官役を見事に演じ、こちらも大変に魅力的だった。
「(女)校長」も芝居勘の良さを感じさせた。飾らない女性のフケ役(あ〜、はっきり書くと、「おばさん」役なんですが)ができるセンスのある役者というのは、今まで観てきた新潟の劇団には殆どいなかったので感動した。こういう役者がいると、ぐっと劇団の演目に幅が出てくると思う。今回の舞台で一番、今後に期待している役者。
「江藤ジュリ」の少女らしさも良かった。

 対して気になったのは、「近藤」と「露澪」。
「近藤」に関しては、役者の技量は水準以上にあるのだけれど、それ以上に脚本が難しかったのではないかと思う。2カ所の長い独白(しかも、一方は芝居の最初でありかつ動きの少ないシーン、もう一方は椅子に縛られ身動きできないシーン)で、観客をひっぱりきれなかった感じ。
「露澪」は、幼くて無垢な愛や、死まで思い詰める融通の利かない純粋さ、触れたら切れそうな正にナイフのような危うさ、そんな自分を持て余しながら同時に感じている大人への苛立ちなどの「少年らしさ」が今ひとつ表現できていなかったように思い、多少不満だった。
 で、帰宅後パンフを見たら、どうやら現役高校生らしいとわかり、逆に納得。現在進行形で少年から大人に変化している人間には「少年」を外側から見ることができないので、「少年らしさ」を演じ切れなかったのは無理もない。逆に、初舞台に対し十二分に善戦したほうだと見直した。


 シナリオ上、教頭を始めとする教師側と、立てこもる露澪側との場面が、暗転を挟んで交互に演じられるのだが、場面が戻る時には常に、場面転換前の暗転に至るまでのシーンを少し繰り返してから話が進むという演出がなされていた。この辺り、「帯ドラマのオープニングは、前回放映のラストシーンを繰り返してから始まる」というTVの影響を感じて面白かった。本来、時間的に分断されていないはずの一連の「現実」を細切れで見せなければならないという複数場で構成される舞台の問題を、一つの形でクリアしてみせている。
 さらに、オープニングとエンディングを、ちょっとひねりを入れながら同様の手法でつなぎ合わせて、綺麗に物語を完結させている。心憎いまでのシナリオの仕立てだ。

 しかし、物語に関しては、観終わった後、少々の欲求不満が残った。「え? これで終わりなの?」という物足りなさを感じたのだ。
 原因をよくよく考えてみると、クライマックスがクライマックスとして上手く楽しめなかったからではないかと思い至った。
 クライマックスまで、ナイフを握っていたのは主に露澪で、露澪の大人への反発を軸に物語は回っていた。ジュリは、自分のお腹の子供への心情は語っても、自らの背景や大人への気持ちを表に出してはいなかった。少女でありながらすでに母でもあるジュリは、露澪と大人の橋渡し的な役割を果たしていて、露澪のためにナイフを手にすることはあっても、「大人への反発」というナイフを自らも持っているようには見えなかった。
 なのにそのジュリは、クライマックスで突然現れた長く会っていなかった父親と対峙したとき、当然のように父親への不満を吐露し始め、もう一方の露澪は、露澪自身にはさしたる転機も見あたらなかったはずなのに、その場で「少年」を脱ぎ捨てる。
 クライマックスで予告なく露澪とジュリの役割が入れ替わり、今まで振り上げられていたはずのナイフはいつの間にか消滅し、別の所から別のナイフが振り上げられ、新たなナイフにはきちんとした行き場が与えられないまま、物語が終わってしまったように見える。
 それまでの流れで露澪のナイフの結末を当然のように期待していた私は、クライマックスをクライマックスとして十分には味わえず、ちょいと置いて行かれてしまったようである。


 ぐちぐち重箱の隅をつついてきたが、舞台全体の完成度は、文句無しに高い。
 ダブルキャストの片方(Aキャスト)だけしか観られなかったのが、残念無念。
 当日料金のチケット代に、上越まで足を運ぶ手間と金を加えても、決して損したとは思わないほどの舞台だった。



                             シナリオ4.5
                             演技   5
                             舞台演出4.5
                             総合   5


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小林少年とピストル,ハックルベリーにさよならを

 劇団パラグラフ第10回公演

 小林少年とピストル
 脚本:西田シャトナー(惑星ピスタチオ)

 小林少年は少年探偵。今日も愛犬スピード丸を従え、名探偵明智小五郎の事務所へとちょっと遅刻してやってきたが、明智先生はすでに出かけた後だった。NYで行方不明になった、絵描きの友人をさがしに行ったのだ。
 事務所の留守を任された小林少年。そこに突然、銃を持った女と、彼女の主人・トゥエンティフェイス男爵が現れる。男爵は、NYの倉庫から盗まれた、一枚の絵の捜索を明智に依頼するために来たと言うのだが、どうも言動が悪人っぽい。
 不意にたずねてきた刑事達から、逃げるように去る男爵。
 刑事達は、行方不明になった明智の友人の絵描きが、薬物を絵に塗り込めて麻薬の運び屋をしていたらしいと告げる。
 そして、明智に会いにきた絵描き。彼は、男爵が探している絵の作者だった。
 小林少年と絵描きとスピード丸、二人と一匹の逃避行が始まる。

 シナリオは、裏の無い冒険活劇として観れば文句のないもの。
 ただ、内面描写では不満がある。
 主人公は小林少年のはずなのに、シナリオ上で内面がクローズアップされているのは絵描きのほう。小林少年は名ばかりの主人公、単に都合良く使える猿回しの猿になってしまっているのだ。
 シナリオ上、小林少年に「少年らしさ」がないのも不満。
 無邪気に大人に憧れる「子供」と、過ちを許す「大人」の顔はあっても、様々な矛盾を内包して持て余す「少年」の姿は、そこにはない。


 技術的には、一部のセリフの聞き取り難さとマイムのわかりにくさがあった。
 マイムのわかりにくさは、訓練不足よりも慣れの問題に見えた。
「こういう動きをしているのだから、こう観てもらえるに決まっている」という思いこみと、繰り返された練習の慣れという二つの要素によって形骸化してしまった動きを、形だけなぞっているように見えたのだ。
 オープニングも含め、かなりの部分がマイムを中心にした目まぐるしい逃走劇であるだけに、そこでの不満が全体の印象を左右したかもしれない。


                             シナリオ 4
                             演技  3.5
                             舞台演出 4
                             総合   4


 ハックルベリーにさよならを
 脚本:成井豊(演劇集団キャラメルボックス)

 離婚した父さんと母さん。家庭教師のコーキチくんのお陰でカヌーが大好きになった、母さんと一緒に住む小学六年生のケンジ。そして、兄であるボク。
 コーキチくんにパドル(カヌーの櫂)をもらったケンジは上機嫌。月に一度の父さんとの面会日にも、パドルを持って出かけていった。
 中学に入るまでは一人でボートには乗らないって母さんと約束しているけれど、父さんと一緒なら約束を破ったことにはならない。今日はボートに乗ってパドリングの練習だ。
 そんな風にその気になっていたケンジだったけれど、父さんの部屋には父さんの他にもう一人、知らない女の人がいた。
 女の人はカオルさん。父さんのことが好きで、父さんはケンジが賛成してくれたら、カオルさんと再婚したいと思っている。
 ボクは、カオルさんが父さんにふさわしい人かを確かめるために、カオルさんの部屋を訪ねた。

 少年が大人への一歩を踏み出す、その一瞬を見事に切り取った物語。

 序盤、小学六年生のケンジに対し、兄であるはずのボクがどうしても中学生以上に見えないこと、セリフなどからケンジとの年齢差が推測できないことなどに違和感を持っていたのだが、その兄が実はケンジ自身、ケンジの心がうみだした「他の人には見えない兄さん」であることが明らかになると、全てがそれにふさわしい姿であったのだと納得できた。

 演技の面では、ケンジの「少年らしさ」がとても良かった。
 もう、元には戻らない、父さんと母さんが一緒にいた頃には戻れないのはわかっているのだけど、心のどこかではそれを願ってしまっている。カオルさんと父さんの再婚は、たとえ果てしなくゼロに近くても確かにあったはずの可能性を、ゼロにしてしまうことを意味している。
 母さんがかわいそうだ、不公平だとつくろいながら、自分がただダダをこねている子供であることをケンジは自覚している。カオルさんはいい人で、自分も好きで、カオルさんと父さんが結婚するのがカオルさんのためにも父さんのためにも良いのだなんてこと、百も承知している。
 それでも、どうしてもカオルさんを父さんのパートナーとして認めることができない、ケンジの中の矛盾。
 それに対する戸惑い、それと対峙する痛みが、切なく伝わってくる演技だった。
 登場する役者の中でも特に長身の役者が演じていたにもかかわらず、ケンジはとても小さい少年に見えた。

 満足。


                             シナリオ 5
                             演技   5
                             舞台演出4.5
                             総合   5


 ちなみに、自分の中の矛盾、そもそも無いかあってもまるっきり気づかないのが「子供」、一足飛びに開き直って認めるのが「大人」、そして正面からぶつかって血を流しながら真摯に苦しむのが「少年」であると、私は考えている。
 だから、矛盾のかけらも感じさせない小林少年は「少年」ではないのだ。




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嘘つき

 劇団カタコンベ第33回公演
 作:戸中井三太

 サラリーマン・木村コウスケの周囲には、二人の女。
 残業仲間の野崎さんと、金とコネを持つユキ。野崎さんは、決して実力がないわけではないのに、やたら自信がなく、課長から押しつけられた仕事を断ることもできないで連日の残業をしている。対して、ユキは自信と金が余っていて、コネまである。
 対照的な二人を前に、コウスケは「つき合うのはユキ、でも、本当に好きなのは野崎さん」ということにする実験を始める。


 だんだん自信をつけて魅力的になって行く野崎さんと、金持ちでちょっとズレてるけどかわいいユキ、上手く立ち回っているつもりだったのに、嘘がばれたら誤魔化すこともできずにあたおたするコウスケ、それぞれに魅力的。
 強いて難を言えば、「タカビー→かわいい」の変化をしているはずのユキの「タカビー」の部分がシナリオ上出ていないために、ユキが変化したことに対するコウスケの戸惑いに同調できなかった所が気になった。
 序盤のノリがイマイチで、客席からの笑い声が出るまでに少しかかった。セリフとしてはギャグになっているのだけれど、舞台表現としてギャグになりきれていない感じ。「自信のない天然ボケ」という野崎さんのキャラクターの難しさのためだったのかと思う。

 圧巻だったのは、クライマックスのタコを食べるシーン。
 コウスケとユキが、もくもくとマイムでタコ刺し・タコ焼き・タコ天ぷらを食べるのだけれど、普通のタコ刺しと固いタコ天ぷらとの「食べ分け方」が絶妙。
 その上、無言でタコを食べるその演技が、実に雄弁だった。

 面白かったです。はい。


                             シナリオ4.5
                             演技   5
                             舞台演出 4
                             総合  4.5

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アリウープ-evolution-

 爆男倶楽部第23回公演
 脚本・演出:能勢 利明

 フランス革命直前のパリに、現実と虚構の狭間と時間を越えて現れた3人。土方歳三、影丸、サファイヤ(リボンの騎士)。彼等は、何かを成すためにこの時代に再生された、人ではないモノだ。
 そして、彼等よりも先にこの地に現れ、国王ルイ16世の側近として入り込んだ、ナチスドイツの広報参謀ヨゼフ・ゲッペルス。ゲッペルスは、平賀源内やマルキド・サド公爵を味方に、オペラという媒体を使い国民感情を操作し、フランス革命を阻止するための行動を起こす。
 オペラ制作のために呼ばれたモーツアルトやベートーベン、まだ少年のナポレオン・ボナパルト、親衛隊のオスカルに、オペラに出ることになった王妃マリー・アントワネット。
 やがて、1789年7月14日、バスティーユ牢獄の前で、オペラの幕が上がる。


 とにかく、派手でパワフル。
 独立したアトリエという自由にできる空間を存分に利用した舞台装置、観客をいかに驚かせ楽しませるかを工夫した演出、肉体派フケ役から歌える美女まで幅広い役者陣、歴史上の人物やフィクションの登場人物をこれでもかと使った盛りだくさんな脚本。
 ことに、マリー・アントワネットの歌声は、今まで観てきた劇団の役者のうたとは一線を画していた。新潟の舞台で「聞ける歌」を聞いたのは初めて。
 脚本がオリジナルであることを考えると、モーツアルトが即興でアレンジした曲や舞台上で演じられるオペラの曲などもオリジナルなのではないかと思うのだが、だとしたらちと凄いんでなかろうか? ピアノ(実際にはシンセだろうが)を弾くシーンも、生で弾いていたように見えたし。
 小劇団でも、こういうことができるのだねえと、感動。

 一部の役者の動き(アクションシーン以外)に無駄があって、観ていて疲れるのが少し気になる。
 シナリオでは、ただでさえ多いキャラクターそれぞれに似たようなギミックを持たせているため、結局はクライマックスで、キャラクターごとに何度も似たシチュエーションを繰り返すことになってしまい、驚きや感動が薄れてしまうという問題もあった。
 技術的には複数の役者が同時に同じセリフを声を揃えてしゃべる所で、セリフが合わないという大問題もあった。(これがピタリと決まっていたらな〜〜、とつい、思ってしまう)
 しかし、それらのマイナスの要素を計算してもなお、魅力的で面白い舞台だった。
 存分に楽しませてもらった。


 同じ週末に観た劇団カタコンベとは対極にある劇団だけど、こういうのも良いんだよね〜。


                             シナリオ 4
                             演技   4
                             舞台演出 5
                             総合  4.5

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銀座 旗揚げ公演

 作:銀ぱぱん・銀サトム

 前座の劇団RED SPICEの『赤い靴』をモチーフにした作品、銀ぱぱん作の『セックス』をテーマにした作品、銀サトム作の『吸血鬼』をモチーフにした作品、計三作のオムニバス形式の舞台。(作品名ナシ)

 凄かったのは『セックス』をテーマにした二作目。
 男のヌード写真を隠し持つ女達、セックスへの好奇心を抱く思春期の女の子達、子供に「セックスって何?」と聞かれる母親、自分の外性器の形状が異常だと思いこんでいる中年女、等々。性の周辺の矛盾や汚さを、模造性器で性器を隠しただけ、お尻丸見えのセミヌードの男二人と着衣の女一人が、生ギターをBGMにこれでもかと絡み合いながら描き出す。

『セックス』をそのまま舞台に乗せたら、幻想がなくなって、淫靡さもセクシーさもエロスもなくなって、結局、グロテスクさだけが残ってしまったというところが、物理的行為としてのセックスというものの本質を的確に描いている。
『セックス』それ自体にに幻想を抱いている観客には、受け入れられない作品だったかも。
 作者が男性であるためだろうか、女の自己性器の他人性、母親のする子供周辺からの性の排除など、「女のセックス」を客観的に見つめたネタが多かったように思う。この鋭さで、女の目から「男のセックス」を斬ったらどうなったか、ちと興味がある。
 しかしまあ、これほどはっきりとセックスを描くと、逆に萎えるようなモノになってしまうというのは、笑える矛盾かも。

 この作品に関しては、脚本の仕立て・演技・演出などの技術的問題点は、コメントしない。
 演劇を「誰かに何かを伝えるモノ」として捉えるならばそこに技術の研鑽は必須である。聞かせなければならないセリフが聞き取りにくいのは問題だし、観客を疲れさせる必要のない無駄な動きは排すべきだし、観客が理解しやすく観やすいようにテンポにも気を配るべき。観客が目を逸らしたくなる衣装など、論外である。
 でも、演劇を「表現したいモノを表現するもの」として捉えるならば、そこに観客を対象とする計算など必要ない。いかに自己のイメージを表現するか、それに忠実であれば、それでよいのだ。
「観客に受け入れ難いのはわかっている、それでも、自分達はこう表現したい」という声が聞こえるような舞台を観ながら、「それもまたよし」と思わされてしまったら、もう何も言えませんがな。


 三作目の最初は、二作目の作品の性質(役者の担当するキャラクターが目まぐるしく変化する。セックスという隠蔽されるものをテーマにしている。はっきりとしたオチが無い)のため、「作品が変わった」ということを即座に認識できず、とまどってしまった。
 後から考えれば、最初から良い感じで雰囲気を出していた演技だったし、掌編ながら良くまとまった作品だったのだけれど、なにせ二作目のインパクトが大きすぎたため、観客が上手くそれを受け止めることができなかった感じ。
 少しもったいないことをしたかな。

 ストーリーは、一人の女の家に見ず知らずの男が上がり込む所から始まる。男は実は吸血鬼で、彼女は彼の妹の生まれ変わりだったのだ。
 日の射さぬ夜の闇に沈む屋敷の中で暮らす兄妹吸血鬼の密接な関係、そして、人間に憧れ自殺を選ぶ妹。兄は時代を超え妹を探し続け、ついに現代の日本で妹の生まれ変わりを見つけた。
 前世の記憶を取り戻した妹は、共に行こうという兄に、何と応えるのか?
 
 二作目と三作目を比べたら、三作目の方がよほど淫靡さがあったってのが、面白かった。


                             シナリオ ?
                             演技   ?
                             舞台演出 ?
                             総合   4

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