トーマの心臓


少年愛ではない、少年達の愛の物語

 トーマの心臓の主人公達は、何故、少年でなければならないのか?
 それは、彼等が性を感じさせてはいけないからである。
 彼等は愛を語る。口づける。しかし、そこに性はない。
 作品が発表された1974年という時代の背景のためだとも考えられるが、そ
の頃に少年の間の愛を描く事自体が、冒険である。でも、作者はそれをしなけれ
ばならなかった。

 読者である少女達は、経験として少女がエロチックな存在であることを知って
いる。多くの同性愛物をかく(書く・描く)作者は、それを踏まえた上で、恋愛
という生身のエロチシズムを幻想のそれに昇華する手段として、男同士・少年同
士を媒体として選ぶ。
 リアルなエロチシズムを持つ「女」は、そのエロチシズムを表現する上でさえ
邪魔な存在なのである。
 まして、表現したいものがエロスを排した「神の愛」であった場合、その体現
者は読者自身が決して聖なる存在ではないと知っている少女であってはならな
い。愛する者が少女であっても、愛される者が少女であっても、読者はそこにエ
ロスの匂いをかぎとってしまうからである。
 エロスを持たぬ「神の愛」を描くため、作者は読者にとって未知なる他者であ
る少年を、媒体として必要としたのである。
 舞台がギムナジウムという閉鎖された聖域であるのも、「神の愛」の体現者で
あるトーマが物語の最初に死んでしまい、肉体を持たぬ回想の中の存在として描
かれるのも、リアルな「神の愛」を描くための必然なのである。

 何処だかの国では、エーリクの頬に口づけるユーリをベタでつぶして出版した
そうであるが、性表現の規制だとしても、同性愛表現の規制だとしても、ずいぶ
んと間抜けな話だ。
 神の愛に応える姿を、俗世の性表現や同性愛表現と同一視すること自体、作品
の本質に対する理解が浅いことを露呈しているからである。


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