この作品は、「夕焼けニャンニャン」という番組がなければ、生まれなかった
作品であろう。
選ばれた者の聖地であったブラウン管の向こうを、放課後の教室にしてしまっ
た番組、それが「夕焼けニャンニャン」である。
この番組をきっかけに、真に選ばれた者を探すためのオーディションというシ
ステムは、アイドルを産み出す儀式へと変貌し、儀式それ自体が目的になり、そ
の結果、メディアはアイドル大量消費時代を迎えた。
メディアは儀式によって生贄を選択し、本人の実体を無視して自走する幻想を
作り続け、アイドルの薄っぺらな幻想は、本人の実体の前に崩壊し、走り続ける
力を失い、そうして多くのアイドルは消費され、どこかへ消えて行く……そんな
ことが延々と繰り返されていた80年代末。
この作品は、そんな時代を背景にしている。
作中で、主人公は、幻想に仕立て上げられる。そして、幻想を幻想として完結
させるために、メディアによって「殺され」る。それは、薄っぺらな幻想をより
効率良く有効に消費するプロジェクトである。メディアから抹殺することによっ
て、幻想に永遠性を与えようとしたのだ。
しかし、主人公の幻想は、メディアの予想を超えて走り続けていた。儀式の傍
観者達は、自分達で儀式を始め、その儀式によって新たなる幻想として主人公は
再生する。(作中のこの部分は、1992年に夭逝した人物を思わせる)
新たなる幻想となった主人公は、今度は自らの意思で幻想の向こうに姿を消し
てしまう。
少年は、メディアによって切り刻まれ、一かけらずつ殺された。
しかし、自らの意思で壊死した殻を脱ぎ捨て彼方へ行くことで、大人になった
主人公は生き続ける。
それが、幻想に押し潰されないための唯一の手段だと、当時(1990年)の
作者は考えていたのだろうか?